聖書箇所:ルカによる福音書24章44~46節
ホセア書6章1~3節
三日目の希望
ルカ福音書におきまして主イエスは、旧約聖書を根拠として「メシアは三日目に死者の中から復活する」と言われています。この根拠を与えているのがホセア書6章1~3節です。そのなかでも2節の「立ち上がる」が、復活するという意味をも含んでいる言葉です。ここから主イエスは、ご自身が救い主として三日目に復活されたことを示されたのです。
さて「三日目に立ち上がらせてくださる」という言葉は、1~3節にわたる悔い改めの言葉のなかに含まれています。聖書において悔い改めとは、神のもとへ帰ることを意味しています。ここで人々は、神のもとへ帰ろうと互いに言い合っています。それまでの自分たちの歩みが神から遠く離れたものであったと思い至ったからです。この言葉を発しているのは、神の民イスラエルです。彼らは自分たちの土地を守るために王国を築きます。その場所は、エジプトとアッシリアという大きな国の間にありました。しかも、交通の要所でした。ですから神の民の小さな王国は、常に大国に領土を狙われる立場にありました。そのようななかで神の民は、政治的な策略をめぐらしました。自分たちの益になりそうな力の強い国と同盟を結んで、王国の存続を図りました。大国と同盟を結ぶ際には、相手の国の宗教を受け入れることが有効です。同じ宗教を信じている人々にひどい扱いをすることは難しいからです。したがって神の民も、大国と同盟を結ぶために相手の宗教を取り込みました。神殿などでは主なる神を礼拝しながら、大国とうまく渡り合うために異教の神も必要に応じて信仰したのです。神の民は、まわりの国からの反発を受けない私的な領域においては主なる神を礼拝し、公的な場所では大国の宗教を崇拝していました。これに対して神は、それは姦淫だと神の民を告発します。この罪の告発が、ホセア書において繰り返しなされています。
政治的な策略によって事態を打開しようとした神の民でしたが、それも限界をむかえ、いよいよ国が滅ぼされそうな状況になりました。このとき6章1~3節の悔い改めが語られるのです。それはどこまでも、神の恵みと憐みによる王国の存続を期待するものでありました。さて、このような神の民に対する神の反応はどうだったのでしょうか。彼らの悔い改めの言葉のとおりに、神は彼らに恵みを雨のように注がれたのでしょうか。残念ながらそうではありませんでした。それどころか5節では、わたしは彼らを切り倒し、滅ぼすと言われます。これは王国に対する滅びの宣言です。この宣言のとおり、神の民の王国は、その後大国アッシリアによって滅ぼされていくことになります。なぜ神の民が神に立ち帰ろうとしたにも関わらず、神はそれを受け入れられなかったのでしょうか。神の慈しみは深くないのでしょうか。決して、そんなことはありません。神の裁きの原因は6節の言葉から見ることができます。それは神に立ち帰ろうとした神の民が、神を知らなかったこと。何よりも神の愛を知らなかったこと。これが、神が彼らの悔い改めを拒否された原因なのです。
神の民が1~3節の悔い改めを語ったのは、苦しい状況を脱することを願ったためです。つまり彼らは、自分たちの期待する結果を得るために神に帰ろうと言い合ったのです。これは病気になったときに、病気を治してくれることを条件として神を信じるようなものです。仮にその条件が満たされて病気が癒されたら、一時的には神を信じて愛するでしょう。しかしその後また苦しい状況に置かれたら、あっという間に他の神に乗り換えていくでありましょう。これが、神の民が神に向けた愛でありました。自分の期待する見返りを求める条件付きの愛です。この時代の神の民に限ったことではありません。これが人間の愛なのです。一方神は、自らを裏切る人々をなお愛を注がれ続けます。ホセア書において神は民の罪を告発しながら、なお民への愛をも示しておられます。神に反抗する罪人を、なおも愛される神の愛。この愛が示されたのが、主イエスの十字架と復活です。それは、愛すると決めた者を無条件で愛し続ける愛です。たとえその者が、自分を裏切ろうとも、自分を殺そうとも、それでも愛し続ける愛です。この神の愛を知りなさいと、神はご自身の民に言われるのです。それはつまり、無条件で愛し抜かれる神の愛が、自らに注がれていることを知るということです。
条件付きの愛とは、自らの期待に合わない者を愛さないことと一体です。自分も相手の期待に応えなければ愛されません。大変窮屈で苦しい愛です。神の民が神に向けた愛も、結局は条件付きの窮屈な愛でした。自分は神様の期待にそって行動しますから、あなたもわたしたちの期待どおりに動いてください。これが神の民が神へ向けた愛でした。これを、神は拒否されたのです。神を信じていても、期待外れのことが多々起こります。だから神を信じないという人が、大変多いのです。しかしこのこと自体、自分の期待を叶えてくれる神しか愛さないという、条件付きの愛の現れではないでしょうか。十字架と復活に示された神の愛は、これとは全く違うのです。神は無条件でこのわたしを愛しておられます。だからこそわたしたちも、自らの望む期待をいったん手放して、神を愛してまいりましょう。そして神が愛する周りの人々をも、同じ愛で愛していこうではありませんか。そこには当然期待を裏切る人々もいるのです。それでもありのままで、互いに愛し合おうではありませんか。それによってありのままの自分が、そのまま愛されるのです。それが教会という場所です。教会こそ、条件付きの窮屈な愛からの解放が与えられる場なのです。これこそ、主イエスが十字架と復活によってわたしたちにもたらしてくださったイースターの希望、三日目の希望なのです。