聖書箇所:使徒言行録4章32~37節
復活の証しと信者の生活
教会への迫害が始まりました。そのなかで教会にに集う人々が、聖霊に満たされて大胆に神の言葉を語り出しました。それは御言葉を語るだけに終らず、教会生活においても大きな変化を生みました。
信じた人々の群れは心も思いも一つにしました。神に仕える思いを一つにしたのです。こうして彼らは、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有しました。個人の所有物を持つことを否定しているのではありません。自分の持ち物を独り占めせず、必要としている兄弟姉妹のために気前よく用いたのです。それぞれが自発的に、喜んでなしたことがここに記されています。何よりも彼らは聖霊に満たされた者たちでした(31節)。ここに記されている教会の姿は、決して人の努力によって達成されたものではありません。どこまでも聖霊の御業として実現したことなのです。
この教会の姿は、理想像ではなく、むしろ今のわたしたちの教会の姿から遠くないように思うのです。この浜松教会も、献品や、献金や、奉仕のための労力や時間など、ここに集っている方々が自分の持ち物を自分だけの物としない行動をすることによって支えられています。それらをとおして、聖霊の働きが現れているのです。わたしたちの信仰生活に根差したところ、わたしたちに近いところで見出される聖霊の働きを決して見落としてはなりません。そのような聖霊による働きの一環として、使徒たちは大いなる力をもって主イエスの復活を証ししました。すなわち使徒たちは主イエスの復活を証しする御言葉を語っていたのです。御言葉は、呪文の言葉ではありません。それが人々に聞かれ、理解され、それに従う人々が起こされることによって、その力を発揮します。主イエスの復活を証しする御言葉が語られることと、それに基づく生活がなされること。この二つがあってこそ、教会は教会としての姿を現すのです。決して牧師一人が御言葉を語っていれば教会が立つのではありません。ここに集っている皆さんが実際に御言葉に動かされているからこそ、聖霊の働きが現れ、今ここに浜松教会が立てられているのです。このことを忘れないでいただきたいのです。
33節の後半には、主イエスの復活を証しし、御言葉に聞き従う教会の姿が、人々から非常に好意を持たれていたと記されています。この箇所は、意味を決定するのが難しい箇所です。新共同訳のように「教会の周囲の人々から非常に好意を受けた」という意味で訳しているものと、「教会に生きる人々に対して恵みが注がれた」という意味で訳しているものがあります。後者の意味で訳す聖書が多いようです。御言葉に聞き、それに従う歩みをとおして、神による大きな恵みが彼らに注がれたのです。それによって、周囲の人々から好意を得たという面も、あったでありましょう。このような教会の様子が、34節と35節においてより詳しく記されます。信者の中には貧しい者は一人もいなかったとあります。生活に困窮する者が誰もいなかったということでありましょう。それと共にこの表現は、申命記15章4~5節が成就したことをも示しています。旧約聖書に記されている約束が、聖霊の働きによりこのときの教会をとおして実現したのです。それはまた、そののちに続く教会をとおして実現し続けていくのです。ところで、貧しい者がいなくなるという旧約聖書の約束は、土地や家を持っている人が皆、それ売って代金を持ち寄り、使徒たちの足元に置き、それが分配されたことによって実現したことが記されています。個々人の思いのままに持ち物が共有されたわけではないようです。提供された物は、使徒たちによって管理され、必要と思われる人々に分配されました。教会の働きとして、組織的にこのことがなされたのです。教会によるこの働きによって聖霊の働きがあらわにされたのであり、教会をとおして旧約聖書に示された神の約束が実現したのです。
さてここでバルナバという人物が登場します。上述の行動を実践した忠実な人物として登場します。彼の本名はヨセフですが、バルナバというあだ名で呼ばれていました。慰めの子という意味でした。慰めという言葉は、励ましも意味し、奨励をも意味する言葉でした。彼はレビ族の人でしたから、何かしら人々に教えを説く役割を担っていたと思われます。それによって人々を励まし、また慰めることもしていたでありましょう。そんな彼もまた、自分の持っていた畑を売り、その代金を使徒たちの足元に置きました。賜物の面でも、また献げ物という面でも、教会のために惜しまず仕えた人。それがバルナバという人でありました。彼は後に、教会にとって重要な役割を果たす人物として登場します。9章において彼は、回心したバウロを他の使徒たちに紹介し、間を取り持つ役割を果たしました。また彼は、一時期パウロの伝道旅行に同行しました。バルナバの働きのおかげで、使徒パウロは使徒言行録の後半において異邦人伝道の働きができたといっても過言ではありません。つまり、賜物の面でも、また献げ物という面でも、教会のために喜んで仕えたバルナバが、神の働きのために大きく用いられることになったのです。このように神に大きく用いられたことは、バルナバ自身にとっても大きな喜びとなったのではないかと思うのです。
教会に仕えることは、見返りを期待してなす行為ではありません。しかし見返りがないわけではないのです。神はわたしたちの仕える思いに相応しく恵みをお与えくださいます。だからこそ今日、神に仕える思いを新たにしたいのです。ただわたしたちは、それを個人的に行うのではなく、御言葉に結びつく教会の業として行います。わたしたちに与えられた恵みを互いのために、教会のために、主イエスキリストのために、喜んで用いていこうではありませんか。驚くべき恵みをもって、神はそれに報いてくださいます。