聖書箇所:コリントの信徒への手紙一12章1~11節
皆を生かす神の霊
本日はペンテコステです。主イエスキリストは、十字架にかかられたのち、三日目に復活し天に昇られました。その後、人々に聖霊が降りました。このことをお祝いするのが、ペンテコステです。わたしたちは自分の意志で行動していますが、聖霊の助けがあって初めて主イエスにお従いすることができるのです。そして主イエスに従う人々が集まる教会こそ、聖霊の働きが中心的に現れる場所であると言えます。今わたしたちは、教会に集められています。聖霊の働きが現れるこの場所が一体どのような場所なのか、ひととき教えられたいと願っています。
パウロはここで「霊的な賜物」について記しています。霊的な賜物とは、どのような賜物でしょうか。霊的とは「聖霊による」ということですから、霊的な賜物とは教会に集う人々をとおしてなされる聖霊の働きのことを指します。聖霊は、この地上に教会を建てあげるために働かれます。この聖霊の働きは、教会に集う人々をとおして現れます。しかし教会でなされることがすべて聖霊の働きなのではありません。それゆえに、何が聖霊によってなされたことなのかを見極める必要があるのです。コリント教会は、まさにこの問題に直面していました。この教会には、人には理解できない言葉である異言を語りだす人々がいました。この異言を語っていた人々が、自分の霊的な賜物が特に優れたものであると主張したところに問題がありました。彼らは自らへの聖霊の賜物を根拠にして、自分の語ることや自らの行動が特に重んじられるべきだと主張したのです。異言が語られなければ問題ないわけではありません。兄弟姉妹と比べて自分を特に神の御心にかなった者であると考えることによって、コリント教会と同じ問題が発生しうるのです。それに対してパウロは1節で、霊的な賜物を与える聖霊の働きがどのようなものであるのか知るべきであると、苦言を呈しているのです。
パウロは、聖霊をものの言えない偶像とは対極の霊、言葉を語らせる霊として説明しています。その人の語る言葉によって、その人に聖霊が働いているか分かるのです。これは何も特別なことではありません。聖霊が働かれているならば「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。「イエスは主である」。これは、信仰告白の言葉です。わたしたちは「イエスは主である」と告白して洗礼を受け、あるいは信仰告白をします。それゆえにこの言葉は、口で語られるだけでは終わりません。実際に主イエスに従って歩みだすことになります。これこそ、天におられる主イエスのご支配を地上に実現させる聖霊の働きなのです。ではイエスを主とする歩みとは、どのようなものでしょうか。参考になるのが、ヨハネ13:13~15にある主イエスの言葉です。イエスを主とする歩みとは、互いに僕となって仕えあうことです。これを実現するのが聖霊の働きです。ですから教会の中で自分を特別視することは、聖霊の働きではないのです。霊的な賜物、聖霊の働きといいましても、それは得体も知れないものではありません。主イエスに従い、互いに仕えあう教会を形成すること。これが聖霊の働きなのです。
さて、教会においては様々な務めがなされています。聖霊から出る多様な働きが、8節以降具体的に挙げられています。パウロが強調しますのは、多様な働きでありがなら、それらがすべてが全体の益となるように用いられるということです。それと共に11節から、教会に集う人々皆に聖霊による賜物が与えられていることが示されます。例外はありません。自分には何の賜物も与えらえていないなどということはあり得ないのです。そこに優劣もないのです。全体の益、すなわち主イエスに従う教会が建てあげられるために、無駄な賜物などないのです。だからこそ、自分の賜物を特別視して、他の人々の賜物を軽んじてはならないのです。逆に、自分は何もできないといたずらに卑下してもなりません。教会にいる人々のなかで、いなくていい人などいないのです。軽んじられていい人などいないのです。すべての人々に聖霊が働かれているからです。皆が例外なく、教会全体の益となるように用いられるのです。
通常「全体の益のために」という言葉は、全体のために個の多様性が殺される危険を伴います。かつての日本でも、戦時中の全体主義体制のなかで個が徹底的に殺されました。多様性より画一性が重要でした。現代においても、わたしたちが属しているあらゆる人間関係において、多かれ少なかれ「全体の益のために」という大義名分のもとで、自分の個を殺さなければならないのではないでしょうか。しかし聖霊が働かれる教会においては、全体の益と個の多様性がどちらも生かされる道が開かれるのです。弟子たちのためにどこまでも僕となられた主イエスにお従いする働きは、どんな小さいものであっても、どんなに見栄えのしないものであっても、教会全体の益のために用いられるのです。それはひとつの聖霊から出る働きだからです。まただれ一人、聖霊の賜物を持っていない者はいません。「イエスは主である」という告白へと導く聖霊の働きのためにわたしたちが働くとき、何一つ無駄なものはなく、誰一人いなくてもいい人はいないのです。主イエスを自分の主として歩むとき、人は誰からも無視されることなく、誰からも比べられることもなく、皆が生かされるのです。全体のために皆が生かされ、誰一人軽んじられることなく、皆で喜びや悲しみを共有する人間関係が実現するのです。地上においてそんな理想的な関係が実現するとすれば、それは聖霊の働かれる教会の交わりをおいて他にはありません。それらすべてを実現するのは、ペンテコステにおいてわたしたちに与えられた神の霊、聖霊なのです。