聖書箇所:使徒言行録5章17~26節
命の言葉を残らず告げよ
17節では大祭司と仲間たちが立ち上がり、ねたみに燃えたと記されています。もともとの言葉では、「ねたみに満たされた」という表現です。2章にありますペンテコステの箇所では、「一同は聖霊に満たされ」とあります。この「満たされ」と同じ言葉が17節でも用いられています。使徒たちを中心とする教会は、聖霊に満たされていました。一方、神に使えるべく立てられた大祭司とその周辺にいたサドカイ派の人々は、聖霊ではなく「ねたみ」に満たされていたのです。ねたみに満たされた彼らは、使徒たちを捉えて公の牢に入れました。口語訳聖書では「使徒たちに手をかけて捕え」と訳されています。「手」という言葉が原文にはあるのです。直前の箇所では、使徒たちの「手」によって、神の御業であるしるしと不思議な業がなされていました。対して大祭司とサドカイ派の人々の「手」は、神の御業を一生懸命押しとどめようとしたのです。聖霊に満たされた使徒たちと、ねたみに満たされた大祭司とその仲間たち。大変面白い対比です。しかしどちらも旧約聖書に記された真の神を信仰している人々です。神を信じている人々の中で、ある人々が聖霊に満たされ、ある人々がねたみに満たされたのです。いま神の御前に集っているわたしたちが、聖霊に満たされているか、ねたみに満たされているか、常に省みる必要があるのだろうと思うのです。
さて、ねたみに満たされた大祭司をはじめとする権力者たちによって牢に入れられてしまった使徒たちですが、彼らの働きが妨げられることはありませんでした。夜中に主の天使が牢の戸を開け、彼らを外に連れ出しました。これがいったいどのようにして起こったのかは記されていませんので分かりません。ただ使徒たちが牢から連れ出された目的については、20節の天使の言葉から明らかにされています。この命の言葉を残らず民衆に告げること。そのために使徒たちは、牢から外に連れ出されたのです。夜中に解放された使徒たちは、主の天使が命じたとおり、夜明けからさっそく神殿の境内に入って教え始めました。
驚いたのが大祭司とその仲間たちです。使徒たちを捕らえた彼らは、最高法院を招集しました。律法に基づく裁判によって、使徒たちの働きをやめさせようとしたわけです。しかし、いざ使徒たちをひき出すために牢に人をやると彼らがいません。下役たちがそのことを報告します。牢にはしっかりと鍵をかけた。そして戸の前には番兵が立っていた。完全なる密室です。普通に考えるならば、使徒たちがいないなんてことはあり得ません。にもかかわらず、扉をあけると中には誰もいなかったのです。完璧に使徒たちを牢に閉じ込めたわけですから、この一時のあいだ、この一晩、ひとまず使徒たちの働きを抑え込むことができたと祭司長たちは思っていたはずです。ところが、そこに使徒たちがいなかったのです。そしてすぐに別の報告がもたらされます。「御覧ください。あなたがたが牢に入れた者たちが、境内にいて民衆に教えています」。権力をもってしても、使徒たちの働きをわずかな時間ですら、抑え込むことができませんでした。そこで守衛長は、下役を率いて出ていき、神殿の境内で教えていた使徒たちを引き立ててきました。このとき、民衆に石を投げつけられるのを恐れて、使徒たちに手荒なことはしませんでした。石を投げつけられるという表現は、石打ち刑を指す言葉です。旧約の律法において石打ち刑とは、神への反逆者に対してなされる死刑の方法です。つまり民衆は、使徒たちの働きに神の御業を見ていたのです。それゆえに、たとえ権力者であってもこの働きに大っぴらに逆らうならば、民衆から神への反逆者とみなされ石打ち刑にされかねない状況でありました。そのため守衛長は、武力によって強制することはできなかったのです。
ここから示されるメッセージは、なんでしょうか。神に従う者は向かうところ敵なしだということではなく、神の働きはわずかな時間であっても妨げられることがないということでありましょう。たとえ神のために働く人々が妨げを受けたとしても、神の働きは妨げられることはないのです。今日の箇所における神の働きとは、「命の言葉を残らず告げること」です。3:15では主イエスが「命への導き手である方」と言われていますから、命の言葉とは、何よりも主イエスをとおして明らかにされた福音です。この言葉を告げよと、主の天使が使徒たちに命じています。主の天使は、超越的な力によって使徒たちを牢から外に連れ出すことができる存在です。しかし命の言葉は、主の天使ではなく人間的な弱さを持つ使徒たちによって告げられなければならないのです。なぜでしょうか。それは命の言葉が、主イエスの十字架の受難による人の救いだからでありましょう。だからこそ、主イエスと同じように弱さの中にあり、主イエスの御跡に従って実際に苦しんでいる使徒たちが語ることによってはじめて、主イエスによって示された命の言葉が人々に伝わっていくのです。命の言葉は、世での苦しみを味わいながら歩む者にしか告げることはできないのです。
主イエスの御言葉によって救われた者ならば、天使のような存在というのは憧れるのではないでしょうか。天使のように神様だけにお仕えして、世の悩みとか痛みとか苦しみからは完全に開放された歩みをしたいと願うことがあるのではないでしょうか。しかし痛みや苦しみを知らない完ぺきな者ではなく、それらを味わい知る者が語る命の言葉こそ、痛みや苦しみの中にあえぐ人々を救うのです。だからわたしたちは弱さのゆえに、悩み、苦しんでも良いのです。いえ、そのような経験こそ、命の言葉を告げるために必要なのです。痛みや苦しみを知る弱い者として、この命の言葉を残らず人々に告げてまいろうではありませんか。