聖書箇所:使徒言行録5章27~32節
赦すための救い主
使徒たちによって神の御業がなされていました。大祭司たちもそのことを感じ始めていましたが、使徒たちの教えを受け入れることができませんでした。それには理由があります。使徒たちの教えの内容が、主イエスキリストによる救いだったからです。大祭司たちは、かつて主イエスをねたんで迫害し十字架につけて殺した中心人物です。使徒たちが立たされている最高法院は、かつて主イエスを死刑に処すべきだと決議した会議でもあるのです。ですから最高法院のメンバーである大祭司たちから見ますと、使徒たちの教えは、それまで自らがなしてきたことを全否定するものでありました。その教えが民衆の間に急速に広まったわけですから、大祭司たちの危機感は相当なものだっただろうと想像できます。これが28節の言葉に表れています。大祭司たちは、すでに使徒であるペトロとヨハネに主イエスの名によって教えるなと命じています(4:18)。それでもなお使徒たちが教え続けましたので、「あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか」と非難しています。また大祭司たちは、使徒たちの教えが主イエスを殺した自分たちへの断罪を目的としていると考えていたようです。
そのような大祭司たちに対する使徒たちの返答が29節以下です。29節を原文に則して訳すならば、「人間に従うよりも、神に従うことが当然なのです」となります。彼らはすでに、主の天使から「命の言葉を告げよ」との神のご命令を直接受けています(20節)。だからこそ、それに従うことが当然なのです。使徒たちが告げるべき命の言葉の内容が、30節と31節です。「わたしたちの先祖の神」と言われていますので、この神は使徒たちだけが信じる神ではありません。彼らを迫害している大祭司たちの神でもあります。この神は、大祭司たちが木につけて殺したイエスを復活させられたのです。旧約聖書の律法によれば、木につけて殺すとは、その者が神から呪われていることを意味します(申命記21:22,23)。彼らは、主イエスを神から呪われた者として殺したのです。しかしこのイエスを、神は救い主として復活させられました。大祭司たちの思いと神の御心が、正反対なのです。それゆえに使徒たちの告げている命の言葉は、主イエスを殺した大祭司たちへの断罪を含んでいます。命の言葉とは、何の痛みもなく命を与える言葉ではありません。大祭司たちが恐れているように、それまでの自分たちの歩みを否定し断罪する言葉なのです。しかしそれは、断罪では終わりません。断罪が最終目的ではないのです。断罪のあと、31節の言葉が続きます。ここで語られているのは、イスラエルへの悔い改めと赦しへの招きです。通常、断罪のあとになされるのは報復としての刑罰です。しかし使徒たちの告げる命の言葉において、断罪の次に来るのは報復ではなく悔い改めと罪の赦しへの招きなのです。この言葉が、主イエスの血の責任を負う選びの民イスラエル(マタイ27:25参照)に対して語られています。彼らに、赦しの道が開かれているのです。そのなかには、使徒たちを迫害し、また主イエスを殺した中心人物である大祭司たちをも当然含まれています。主イエスの殺人を首謀したあなたたちにも、悔い改めと罪の赦しへの道が開かれている。これこそ使徒たちが、主イエスを殺した大祭司たちに語る命の言葉なのです。
この命の言葉を告げる証言者は、使徒たちだけではありません。聖霊もこのことを証ししておられます。聖霊が、キリストを殺した人々に悔い改めと罪の赦しを招いておられるのです。聖霊は、キリストご自身の霊です。わたしたちは三位一体の神を信じていますので、聖霊の証しはキリストの証しでもあります。大祭司たちによって十字架にかけられた主イエスキリストご自身が、聖霊の証言をとおして、大祭司たちに悔い改めと罪の赦しを招いておられるのです。人の血を流す殺人の罪の重大さは、取り返しがつかないことです。しかし、主イエスを十字架につけるほどの神に対する人間の罪は、悔い改めに手遅れはないのです。なぜなら主イエスは復活されたお方であり、今も生きているお方であり、この方が罪の赦しへと招き続けておられるからです。この喜ばしい知らせを、聖霊は証言し続けられます。この聖霊は、神が御自分に従う者に与えられる霊です。神に従う人々をとおして、聖霊はこの赦しへの招きを証言されるのです。この聖霊が、今の時代を生きるわたしたちにも与えられています。だからこそわたしたちも、この驚くべき悔い改めと赦しへと招く命の言葉を語り、またその赦しを体現するべく召されているのです。そのために必要なことは、まずわたしたち自身がこの命の言葉を聞き続ける者であることです。主イエスの血を流した責任。これはこの時代の大祭司たちだけにあるのではなく、選びの民であるわたしたちにもあるのです。わたしたちのあらゆる罪は、神から見れば主イエスの十字架につけるほどの殺人の罪なのです。命の言葉である悔い改めと赦しを受け取るためには、まず主イエスを殺した血の責任が自分にあるということ深く知ることから始めなければなりません。自分が救いに値する能力を持った人間であると思った瞬間から、命の言葉が聞けなくなります。自分の力で救いが得られるならば、悔い改める必要などないからです。33節以降を見ますと、結局大祭司たちは使徒たちの言葉を拒否し、使徒たちを殺そうといたします。そんな大祭司たちの心のなかにあったのも、自分は救われて当然の存在であり悔い改めなど必要ない、という自己認識ではないでしょうか。しかしどのような自己認識を持とうとも、人は皆、主イエスの血の責任を負う者なのです。しかし神は驚くべきことに、そのような者を聖霊をとおして悔い改めと赦しへと招き続けられるのです。この命の言葉を聞き、また証言する者として、神はわたしたちを遣わされているのです。