聖書箇所:使徒言行録5章29~42節
神から出た計画
32節までにおいて、イスラエルの民全体、特に使徒たちの目の前にいる大祭司たちへの命の言葉の語りかけが、使徒たちによってなされました。その内容は、主イエスを殺した彼らの罪を明らかにするものでした。しかしそれでは終わらず、悔い改めによる罪の赦しが聖霊によって提供されていることを示すものでした。大祭司たちを命へと導く招きが、使徒たちによって語られました。しかしそれを聞いた人々は、それを喜ぶどころか怒りに燃えたのです。彼らは使徒たちを殺そうと考えました。「考えた」とは、図る、計画するという意味です。もう具体的に、どうやって殺そうかあれこれ思案していたのです。使徒たちの語る命の言葉を、完全に拒否する姿がそこにはあります。このような状況のなかで、ファリサイ派に属するガマリエルという律法の教師によって仲裁がなされました。ファリサイ派と聞きますと、主イエスに反対した人々という印象を受けます。しかしそれはファリサイ派に属する一部の人々だけでありまして、実はユダヤ教のなかではファリサイ派がもっとも主イエスの教えに近い立場にありました。このファリサイ派の有名な教師が、ガマリエルという人でした。彼は民衆全体から大変尊敬されていました。そのため使徒たちを殺そうと考えていた人々も、彼の発言を無視することはできなかったのです。彼は議会のなかで自分の考えを自由に発言し、周りの人々もその言葉に聞いています。
ガマリエルは、使徒たちを慎重に対処し、手を引いて放っておくことを勧めます。この発言は、このときの特殊な状況に則してガマリエルが言ったことです。特殊な状況とは、具体的に言えば、自分たちが神に従う者だと主張する集団が現れたような状況です。この状況に当てはまる二つの事例が挙げられています。まずテウダの例。彼は自分が何か偉い者であるかのように自称しました。そして約四百人ほどの男が彼に従いました。しかしテウダは殺されて、従っていた人々も散らされて跡形もなくなりました。その後、住民登録の時にガリラヤのユダが立ち上がり、反乱を起こします。この住民登録は、紀元6年に徴税を目的として行われました。ユダは、捧げ物は主なる神に対してのみ捧げるべきだと主張して反乱したのです。彼のもとにも従う人々が集まりました。しかし結局はユダも滅び、彼に従った者は皆ちりぢりにさせられました。この二つの事例の共通点を見てみましょう。まずは、ある指導者が現れて、それに従う人々が出てきたという点です。しかし結局は指導者が殺されて、そのあと従っていた人々は皆、散らされて跡形もなくなった点も共通しています。この事例を使徒たちに当てはめてみましょう。まず主イエスという指導者が現れました。指導者である主イエスに従う使徒たちが現れました。そして指導者である主イエスは、十字架につけられて殺されています。ここまでは、テウダやユダの事例と同じです。ですからもし、使徒たちの計画や行動が人間から出たものならば、二つの事例と同様に、使徒たちも自滅するはずです。ここにいる人々が手を下す必要などないのです。しかしもし、使徒たちの計画や行動が神から出たものならば、どれほど彼らに危害を加えようとも、それを滅ぼすことはできません。だから彼らから手を引きなさい。これがガマリエルの仲裁でありました。
一同はこの意見に従いました。しかし何もせずに使徒たちから手を引いたわけではありませんでした。彼らを鞭で打ち、イエスの名によって話すことを禁じたうえで釈放しました。「鞭で打ち」とは、ルカ福音書20章のぶどう園と農夫のたとえのなかにある「袋だたきにして」と同じ語です(ルカ20:10)。使徒たちはここで、袋叩きにされたのです。しかしこれによって使徒たちは、主人からぶどう園に遣わされた僕と同じ立場に自分たちが置かれていることを確信しました。それゆえに使徒たちは、自分たちがイエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜んだのです。神が自分たちを遣わしておられるならば、そのお役目を果たさずにはおられません。指導者たちの脅しにもかかわらず、彼らは毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについての福音を告げ知らせていたのです。こうしてキリスト教会は、指導者である主イエスが十字架にかけられて殺されたにもかかわらず、散らされることなく、跡形もなくなることなく、こうして今日にいたるまで続いているのです。
キリスト教が迫害されたのは、なにも使徒たちの時代だけではありません。その後の時代においても幾度となく困難な状況に置かれ、妨げにあいました。しかし使徒の時代から今に至るわたしたちの時代まで、散らされることなく教会は続いています。困難のなかにあっても決して途切れることのなかった計画の中に、わたしたちは入れられているのです。この事実を確認したうえで38,39節のガマリエルの言葉を見るときに、わたしたちが入れられているこの計画、わたしたちが今ここで礼拝しているこの行動は、人間から出たものか、神から出たものか、どちらでしょうか。答えは明らかです。ただ、使徒たちが指導者たちから鞭で打たれたように、神の御計画に与るこの歩みには困難も伴います。といいますか、困難に直面することによって、自分たちが神の御計画に与っていることが示されるのです。このことを、主イエス御自身がすでに予告しておられます(ルカ21:16~19)。神から出た御計画に与っているからこそ、裏切りにあい、すべての人に憎まれるのです。しかしその歩みは決して無駄に終わることなく、命をかち取ることへとつながっていくのです。だからこそ、使徒たちが困難の中にあっても喜びながら福音を伝えたように、わたしたちも絶えず主イエスキリストの福音を語り続けてまいりましょう。