2019年9月15日礼拝説教「知恵と"霊"とによって」

 

聖書箇所:使徒言行録6章8~15節

知恵と"霊"とによって

 

 前回は教会に役員が立てられた記事を見ました。ここで立てられた7人の役員の名前が6章5節に具体的に記されています。その筆頭に挙げられているのが、ステファノという人です。今日の箇所からは、このステファノという人物にフォーカスが当てられていきます。

 このステファノは恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていました。すでに使徒たちが不思議な業としるしを行ったことが記されています(5;12等)。使徒たちにも劣らない働きを、ステファノも行っていたことが分かります。この働きは決してステファノという人に由来するものではありません。恵みを与えられる神に由来するものです。すべては神の働きによるものです。さてここで、神の働きをなしていたステファノに対して議論を挑む人々がおりました。どのような人々か、具体的に記されています(9節)。解放された奴隷とは、ユダヤ人のなかでも奴隷としてローマに連れていかれ、その後解放された人々、あるいはその子孫たちのことを指します。わざわざローマからエルサレムに戻って会堂を作ったわけですから、宗教的に大変熱心な人々であったと想像できます。その他、キリキア州とアジア州出身の人々がおりました。様々な背景を持ち、宗教的に熱心な人々がステファノと議論しました。しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立ちませんでした。彼らが歯が立たなかったのは、ステファノという人ではなく、彼の語る知恵と“霊”でした。なお、新共同訳において“霊”とあるは、定冠詞付きの霊の訳語です。御霊、すなわち聖霊を指しています。ステファノは、知恵と聖霊なる神様において語りました。彼の語ったこの知恵と聖霊に、誰も歯が立たなかったのです。わたしたちもキリスト者である以上、信者未信者に関わらず様々な人に聖書の知恵について、聖書の語る神様について語る機会があるでしょう。ときにそれが驚くべき力を発揮し、聞く人を変える力を持つのです。しかしそれは決して、語る者の力によるのではありません。わたしたちが語る知恵と聖霊の力によるものなのです。働くのはわたしたちではなく聖書の知恵であり聖霊なる神様です。

 さて、ステファノに歯が立たなかった人々は、ある人々を唆して「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒涜する言葉を吐くのを聞いた」と言わせました。そして民衆、長老たち、律法学者たちを扇動してステファノを捕らえ、最高法院に引いて行きました。レビ記24章によれば、神を冒涜する者は石打ち刑に処せられることになっています。主イエスが十字架にかけられる際にも、同じように「神を冒涜した」と訴えられています。ステファノは、まさに十字架の主イエスの御跡をたどっていったのです。ところでステファノを訴えるための11節の主張は、必ずしもステファノがモーセと神を呪ったとか、悪口を言ったというわけではありません。11節の主張と13節の偽証人の言葉を照らし合わせてみましょう。すると11節で「モーセ」と言われているのは「モーセの書き記した律法(すなわち旧約聖書)」のことを、また11節で「神」と言われているのは「この聖なる場所」すなわち神殿のことを指していることが分かります。ではステファノがけなしたと言われている具体的な発言とはいったいどのようなものだったのでしょうか。それが14節です。結局は、いずれ主イエスが神殿を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろうとステファノが主張したことに対する訴えなのです。ところで14節の最後で「モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう」と言われています。これは13節の「律法をけなした」に対応します。つまり13節の「律法」が指すのは、文字で書かれた聖書よりも、その実践のために言い伝えられてきた慣習のことを指しているのです。主イエスがこの慣習を変え、そして神殿を破壊するだろう。ステファノがこのように言った。これが偽証人たちがステファノを訴えた主張でした。さてこのような偽証人の主張は、実はあながち間違ってはいません。慣習を守ることをことさら重要視していた人々に対して、主イエスは本来の神の御心をお示しになられました。そして、機能不全に陥っていた神殿は壊されるとお語りになりました。ステファノはこの主イエスの言葉を教えていたわけです。ですから偽証人たちの主張は、結果的に主イエスが、使徒たちや弟子たちをとおしてなしていく働きを示すことになったのです。

 

 今日の箇所でステファノと議論していた人々が守ろうとしたのは、自分たちがよりどころとしている神殿という場所や、言い伝えられてきた慣習や伝統でありました。もはやそれは、聖書に示された神の御心からは外れたものになっていました。それでも彼らは、それらに固執しました。それが彼らのよりどころだったからです。それゆえに、主イエスのお示しになった神の御心を伝えていたステファノと対立しました。彼らとステファノのどちらが神の権威を持っているかは、15節の表現から明らかです。わたしたちは、今の世にあって主イエスの御心を伝えたステファノの立場に立つべきです。しかしときとして、ステファノに反対する人々の立場に立ってしまう恐れがあることをも心に留めておく必要があるでしょう。自らの立場を守るために、聖書の御言葉に示された神の御心から離れた伝統を重んじることがあってはなりません。受け継がれてきた伝統が、聖書に示された神の御心にかなうものか顧み続けなければなりません。これが週報の表紙に記されている「み言葉によって常に改革され続ける教会」の意味です。そのために必要なものが知恵と霊です。すなわち「聖書の知識」と「御霊の働きを求め続ける祈り」なのです。どちらも求め続けてまいりましょう。それによって「御言葉によって常に改革され続ける教会」を、建て上げてまいりましょう。