2019年9月22日礼拝説教「日常が日常であることの恵み」

 

聖書箇所:創世記8章1~22節

日常が日常であることの恵み

 

 洪水という大きな試練のなかで神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留められました。洪水が長期間に及ぶにあたって、ノアたちは不安になったことでしょう。しかし神は確かに箱舟のなかにいるものを御心に留められました。そして彼らの命を守られたのです。大きな試練にあっても、必ず神は愛する者を御心に留めてくださるのです。試練に遭わないことではなく、試練のなかにあっても確かに神の御心の内に置かれることが、救われた者の恵みなのです。

さて今日の箇所では、命が守られたノアの行動が事細かに記されています。彼は神の救いに安住して何もしなかったわけではありません。一生懸命周りの様子を観察し、記録しました。6節からは烏や鳩を飛ばすことによって、目で見ただけでは分からない周囲の状況までも確認していることが分かります。ノアがこれほどまでに詳細に周りの状況を記録し、また調べたのは、箱舟から出るタイミングを見極めるためではありません。神の救いの御業を記録するためです。そのことが分かるのが、13節から18節です。ノアが六百一歳の最初の月の一日に、すでに地上の水が乾いていることが記録されています。わたしがノアだったら、この時点ですぐに箱舟を出たでありましょう。しかしノアが家族と共に箱舟を出たのは、第二の月の二十七日でした。実に二か月近く、ノアは乾いた大地を見つめながら箱舟を出なかったのです。それまで神が「箱舟を出なさい」と言われなかったからです。少々馬鹿らしく思えるぐらい、ノアは神の言葉を待ち続けたのです。それが、神の好意を得たノアという人物なのです。

 20節からは、箱舟から出たノアがまず行った行動が記されています。彼は祭壇を築き、焼き尽くす献げ物をささげました。本来であれば自分も洪水によって滅ぶべき罪人であると理解していたからです。焼き尽くす献げ物とは、汚れた自分の身代わりに動物をささげて罪の赦しを請うものです。だからこそ、捧げ物は清いものでなければなりません。汚れた自分の身代わりに神にささげるのですから、献げ物が汚れていたら身代わりにならないからです。「清い家畜と清い鳥」というように、献げ物の清さを強調されているのは、ここに理由がります。ノアにしてみれば、本来滅ぼぶべき汚れた自分が、なんの幸いか神に目を留められて生かされたのです。それゆえに箱舟から出たあと、まずは自らの罪の赦しを請うために焼き尽くす献げ物を神にささげたのです。創世記ではノアについて、「無垢な人」「神に従う人」といった褒め言葉が記されています(6:9)。聖書がノアについてこのように記している根拠は、ノアの目に見える行動にではなく、何よりも自らが神の御前に罪人であるという徹底的な自己認識にあったのではないかと思うのです。

 ノアのささげた焼き尽くす献げ物の宥めの香りをかいだ神が御心に言われたことが21節以降に記されています。大地を呪うとは、洪水によって生き物をことごとく打つことです。そもそも洪水によって生き物がことごとく打たれたのは、人が心に悪いことを思っていたからです。しかし今後は、人が心に思うことは幼いときから悪いからといって、ことごとく生き物を打つことはもうしないと、神は決意なされたのです。その結果が22節です。一年もの期間、天は雲に覆われ雨が降り続けました。その間、22節で挙げられているような営みはストップしていました。しかしこれから先地が続くかぎり、これらの自然の営み、いわゆる日常が、途切れることはないのです。神を信じている人の上にも、信じていない人の上にも日は昇るのです。素晴らしい偉人にも、極悪人にも、日々の日常が続くのです。神がすべての人の日常を守ってくださっているのです。しかしこのような神の振舞いは、見方を変えれば不公平に映ることかもしれません。わたしたちは、素晴らしい人にはより素晴らしい人生が備えられるべきと考えます。逆に、極悪人が日常を安穏と過ごすのは許せないと感じます。極悪人ではなくとも、自分に迷惑をかける人に対しては、日常とは違う何か悪いこと、天罰が起こればいいと、わたしたちは常識的に思うのです。ノアがそのような思いになってもおかしくなかったと、わたしは思うのです。神に従わなかった人々が洪水で打たれるのを見て、「そら見たことか。天罰がくだったんだ」と言うことだってできたでありましょう。しかし箱舟から出たノアは、自分も死ぬべき罪人であることを思いながら、神に赦しを請うたのです。この姿こそ、創世記の示す神の御前に正しい者の姿です。

 

 もし神が、わたしたちの常識と同じように罪に対して罰で臨むならば、誰も生き延びることができません。しかし神は人の悪を忍耐し続けてくださっています。この忍耐のゆえに、わたしたちの日常が支えられているのです。自らの日常が恵みであることを理解するならば、いたずらに誰かの悪を非難して、その人の日常が妨げられることを願うことなどできないでありましょう。では神は、人の悪にはもう目を留められないのでしょうか。そんなことはありませんでした。神は、人の悪の故に生き物をことごとく打つことはせず、特定の一人の人を打たれました。わたしたちの罪の身代わりとして、罪なき清いお方である主イエスキリストがその身をささげられました。そして、わたしたちは滅びることなく生かされているのです。したがってわたしたちの日常生活のすべてが、キリストの恵みによって支えられているのです。今日がどのような日であったとしても、わたしたちはキリストの恵みのうちにいるのです。このことを思うときにわたしたちは、誰かの悪に腹を立てたり、誰かといがみ合ったりすることなく、日常を喜びの内に過ごすことができるのです。