聖書箇所:使徒言行録7章1~16節
神の約束と導き
6章において教会に立てられた役員の筆頭でありますステファノは、恵みと力に満たされて素晴らしい働きをなしていました。それゆえに妬まれ訴えられました。6章11節においてステファノは、「モーセと神を冒涜した」と訴えられています。ここで彼らがモーセと言っていますのは、具体的にはモーセが書きしるした旧約聖書とその実践のための伝統を指しています。また彼らが言っている神とは、神殿を指していました。旧約聖書やその伝統にしろ、神殿にしろ、それらはステファノを訴えた人々が、宗教的なよりどころとしていたものでした。その訴えに対するステファノの弁明が記されていますのが、今日の場面です。そのなかでも冒頭の16節までを取り上げます。この部分は、旧約聖書にある創世記の要約です。ステファノは、自らへの訴えが不当であることを示そうとしただけでなく、自分を訴えている人々の実践が旧約聖書の御言葉に基づいていないことをも創世記の要約をとおして示していくのです。
ステファノの弁明は、アブラハムの選びから始まります。アブラハムは最初メソポタミアにいました。そんな彼を神は、約束の地に導かれました。アブラハム自身も神の招きにしたがいまして、慣れ親しんだメソポタミアから旅立ちます。この当時の旅は今と違って命がけです。アブラハムは命がけで神に従いました。普通の物語であれば、命がけで従ったアブラハムに、神は約束された土地と財産を豊かに与えられました、という結論になるでしょう。しかし神は、そこでアブラハム一切財産をお与えになりませんでした。アブラハムに与えられたのは財産ではなく、子孫にこの土地を与えるという約束でした。しかも順当にそれが起こるのではなく、子孫たちがいったん外国で奴隷とされ、そこから救い出されることになることをも神はアブラハムにお伝えになりました。この約束は、アブラハムにとって驚くべき内容でした。彼には子供はいなかったからです。妻のサラは老齢で、とても子供を産むことができる年齢ではありません。しかしサラからイサクが生まれました。こうしてアブラハムは、割礼をとおして神との契約関係に入りました。イサクにはヤコブが生まれ、ヤコブからは十二人の族長と呼ばれる人々が生まれました。さてここで、神の言葉どおり子孫たちはエジプトに移住することとなりました。きっかけは、ねたみを発端とする血なまぐさい兄弟げんかでした。その結果、ヤコブの息子の一人であるヨセフがエジプトに売られることとなりました。しかしなお神はヨセフを離れませんでした。ヨセフはエジプトの王ファラオによって大臣に任命されました。このことが、一家全体を飢饉から救うことになったのです。
これらの経過をみるならば、「子孫にこの土地を与える」という神の約束とは逆方向に事が進んでいるように見えます。兄弟げんかも、ヨセフがエジプトに売られたことも、そして一家でエジプトに移住することもそうです。しかしその一つ一つが、最終的には神の約束の実現への備えになっていくのです。神の約束の実現からは程遠い状況にあっても、神は約束の実現に向けてアブラハムの子孫を導かれているのです。
ステファノがこの要約で主張したかったことは何でしょうか。それは神の働きは、人の常識ですとか場所によって制約を受けないということです。神の働きが制約を受けるのは、神御自身のなされた約束のみです。どのような状況でも、どのような場所でも、ご自身の約束の実現のために神は導かれるのです。ステファノを訴えていた人々は、ことさら神の神殿という場所を神聖化しました。そのような彼らは、自らの理解にしたがって神の働きを自らのよりどころとしている立派な神殿という場所のみに限定したのです。そして神に仕えるべく立派に神殿を擁護する自分は、神の側についていると信じて疑いませんでした。そんな彼らに対してステファノは、創世記を要約することによって、約束に基づく神の働きがどのような状況のなかにおいても、どのような場所あってもなされることを示したのです。このようにして神殿という場所をことさらに神聖化した彼らの信仰が、旧約聖書から逸脱していることを指摘したのです。
わたしたちはしばしば、神の働きはこうあって欲しいと願います。神の働きを、自分の望む形や自らの常識に制約したがるのです。しかしそういったことに、神の働きが制約されることはありません。神の民に与えられた御自身の約束を実現するために、神はいつでもどこでも働き続けられるのです。この事実があるからこそ、わたしたちの目にはどれほど困難に映るような状況の中にあったとしても、ご自身の約束の実現に向けて導かれる神様の働きに希望を持つことができるのです。神が実現に向けて導いておられる約束は、聖書によって示されています。新約、旧約の「約」という字は約束の約です。とりわけ今日の御言葉に示された神の約束は、神に選ばれた民がどこに散らされようとも、どんな酷い状況に陥ろうとも、神が必ずそこから救い出して御許に連れ帰ってくださるという約束です。この約束が、わたしたちにとっては主イエスの十字架によって与えられ保証されています。ときにわたしたちは、聖書に示された神の約束とは逆の方向に状況が進んでいるとしか思えない場面に遭遇します。しかしそこにおいてもなお、神の導きは確かにあるのです。メソポタミアのアブラハムが約束の地に導かれて子どもが与えられたように、エジプトに売られたヨセフから神が離れなかったように、神は確かに約束の実現に向けて導き続けておられるのです。聖書に記された神の約束が実現することを、どこにいようとも、どのような状況に置かれようとも、わたしたちは期待してよいのです。