聖書箇所:創世記9章1~17節
生きるための契約
洪水によって大地が押し流されたあと、生き残ったノアと彼の息子たちに神は「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福をお与えになりました。これはアダムとエバへの祝福と同じです(1:28)。箱舟にのっていたノアたち家族と動物たちを除いて、息あるものは皆、洪水によって滅んでしまいました。ここから改めて子孫を増やすようにと、神は彼らを祝福されました。2節では、動物たちの支配について語られています。これは、神が動物たちを食べることを推奨される3節の根拠となっています。こうして神は、ノアたちが神の祝福を実現できるよう配慮されたのです。ただし神は、肉を食べる際に血を含んだまま食べることを禁じられました。血は命の象徴だからです。このことは、旧約時代のイスラエルの人々にとって、特別な意味を持っています。彼らがいけにえを捧げる際、いけにえの血を祭壇に注ぎかけます。それは血が命の象徴だからであり、それをささげることで自分たちの罪の赦しを願い求めるためです。このように血が命の象徴であるがゆえに、人の血が流された場合に神は厳しく賠償を求められます。5節を見ますと、人の血を流したのが獣であろうと人間であろうと、ほとんど区別はありません。なぜなら神が求めておられる賠償の根拠は、血が流された側の人の尊さにあるからです。6節の最後に「人は神にかたどって造られたからだ」と記されているとおりです。この事実のゆえに、殺人は神殺しに等しい大罪なのです。また人を殺すことは、1節で語られた神の祝福に逆行する行為でもあります。神の祝福の恵みが大きいゆえに、その祝福に逆行することに対する神の呪いもまた大きいのです。
8節からは、神によって契約が与えられます。この契約の当事者が挙げられています。ノアの家族、そして彼らの後に続く子孫が当事者です。神を信じているか否か、善人か悪人かは一切問われていません。全人類が含まれます。加えて地上のすべての生き物をも含まれています。その契約の内容が11節に記されています。これは局地的に起こる洪水のことではありません。人の悪に対する報いとしての、大地をことごとく滅ぼす洪水は、もう起こさないという契約です。本来であれば、人の悪に満ちてしまったこの世界は、神に滅ぼされて当然です。それにもかかわらず、今日も世界が保たれています。それは、神がこの契約を守り続けてくださっているがゆえなのです。決して当たり前のことではありません。12節からは、この契約のしるしについて語られていきます。確かにこの契約が有効であることの証明です。神が雲の中に置かれた虹が契約のしるしです。この虹を神がご覧になるとき、すべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に神が心を留めてくださいます。そして水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してないと約束してくださいました。おそらく神がしるしについて言及されたあと、雲が晴れ、虹が現れるのをノアたちは見たでしょう。そのとき、彼らは神の恵みをリアルに感じることができたはずです。
神の恵みという点において、ここで立てられた契約は驚くべきものです。この契約における義務はすべて神が負ってくださるものだからです。人や獣の側に義務は一切ありません。また契約のしるしである虹にしても、神御自身が契約に心を留めるために現れると言われています。わたしたちが誰かと契約を結ぶとき、双方が義務を負うことが普通です。片方だけが義務を負うことなど通常ありません。しかしここで神が立てられた契約は、神御自身のみが義務を負ってくださるものなのです。だからこそ、神に反抗して悪をなす人間がなお、この世界に生きることができるのです。そして人間がこの世界に生きることができるからこそ、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神の祝福の実現が可能となるのです。
このように神は、ノアや子孫たちに「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という祝福を与えてくださると共に、この祝福の実現のためにあらゆる備えをしてくださいました。動物を食べることの許可、人の血が流されることに対する報復、二度と洪水によって大地を滅ぼさないという契約。これらはすべて、神の祝福の実現のための備えです。ところで人を祝福するために神がこれほどまでに配慮をしてくださったので、もう何も問題はないのでしょうか。一つ解決していない問題があります。それは人の悪の問題です。洪水の前に悪を行っていた人の性質は、洪水の後も何も変わっていません。人の悪とは、人の血を流さずにはいられない生き方のことです。血は命の象徴ですから、人の命を脅かすことや軽んじることはすべて、その人の血を流すことにあたります。世界中に、このような行為が溢れているではありませんか。そしてこのわたしの行いもまた、人の血を流すことに満ちているではありませんか。神はご自身の契約に従って、今もなおこの世界を滅ぼさずにお守りくださっています。しかしその守りのなかでわたしたちは、人の血を流し続けているのであり、賠償の義務を神の御前に積み上げ続けているのです。このようなわたしたちのために、主イエス・キリストは来てくださいました。十字架上で自らの血を流されることによって、神の賠償を一手に引き受けてくださいました。イザヤ書53:5にあるとおりです。こうして主イエスを信じるわたしたちには、十字架による癒しが与えられました。それは神に対するわたしたちの賠償がなくなっただけに留まりません。救われたわたしたちは血を流しあうそれまでの歩みから離れて、神の形である人間の命を守り、血を流された人々の傷をいやす生き方を始めることができるようにされたのです。この歩みをわたしたちが実際に始めることをとおして、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神の祝福はこの世界に満たされていくのです。