聖書箇所:使徒言行録7章35~53節
拒まれ続ける神の使者
ステファノの弁明の言葉の結論部分に聞いてまいりましょう。彼への訴えの内容は、6章11節に記されています。ここで、「神」と言われているのは、実際には「神殿」のことを指しています。ですから「モーセと神殿への冒涜」が、ステファノが訴えられている理由です。彼を訴えている人々の主張には、二つの前提があります。一つは、自分たちがモーセに味方していること。もう一つは、神殿の建物が神そのものと同一視できるほど神聖であること。この二つです。この二つの前提を、ステファノは聖書の御言葉を用いて覆していく。これが今日の箇所になります。
まずは35~43節を見てまいりましょう。人々が拒んだモーセを、あえて神は召されました。このモーセがエジプトから荒れ野に至るまで、民を導きました。そして彼はイスラエルの子らに対して、『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』と語りました。ですから、いずれ立てられるこの預言者を待ち望む者こそ、モーセに味方する者です。しかしエジプトから救われたイスラエルの人々は、彼に味方しませんでした。彼らはモーセを退け、エジプトをなつかしんだのです。神に導き出されたイスラエルの人々の心は神から離れ、エジプトに向いていました。その結果起こったのが、若い雄牛の像を自分たちで作って、それを拝むという偶像礼拝でありました。
ところで41節の最後には、偶像礼拝をするイスラエルの人々の姿が「自分たちの手で造ったものをまつって楽しんでいました」と表現されています。原文は「自分たちの手の業を楽しんでいました」という言葉です。偶像礼拝とは、自分の手の業を楽しむことなのです。主なる神以外のものを拝まなければ偶像礼拝が起こらないわけではありません。いくら形のうえで主なる神を礼拝していたとしても、それによって自分の手の業を楽しむならば偶像礼拝です。主なる神の名前を使って、自分の都合を満たしているに過ぎません。この姿こそ、神に遣わされたモーセを拒んだイスラエルの人々の姿です。このように偶像礼拝にふけるイスラエルの人々の姿が、42節と43節では旧約聖書の預言書(アモス書5章)からの引用によって示されています。ここにはモレクの神輿やライファンの星への言及があります。42節でも、天の星を拝んだことが言及されています。しかし出エジプト記などの荒れ野での記事において、イスラエルの人々がモレクの神輿を担いだり、星を担ぎまわったりひれ伏したりする記事はありません。それらが実際に行われたのは、その後の時代においてでした。ですからステファノは、荒れ野のことだけを引き合いに出しているのではないのです。イスラエルの人々が荒れ野から始まってその後の時代にも繰り返し偶像礼拝を続け、モーセだけでなくその後の時代に神から遣わされた預言者たちをも迫害し、拒み続けた歴史全体に言及しているのです。このことが分かりますと、52節の言葉がよく分かるでしょう。あなたがたの先祖は正しい方が来られることを預言した人々を殺し、ついにあなたがたは正しい方である主イエスを殺してしまったんだと、ステファノは示すのです。つまりステファノは、自らを訴えた人々がモーセの味方ではなく、モーセに反抗して偶像礼拝にふけったイスラエルの人々に味方していると指摘したのです。
続いて、44~50節の幕屋と神殿の話を見ていきましょう。44~47節では、荒れ野にあった証しの幕屋が神殿になっていった経緯が語られています。荒れ野における幕屋は、場所を移動することが前提とされていました。その後、イスラエルの人々は定住するようになりました。こうして、移動が前提の幕屋に代わって神殿を建てようと思い立ったのがダビデ王でありました。そして実際に神殿を建てたのが、ダビデの子、ソロモンでした。このようにして建てられた神殿の建物やその場所を、ことさら神聖化して神御自身のように扱われるべきものではないのです。48節にあるとおりです。この言葉は、ソロモンの言葉の引用です(列王記上8:14以下参照)。一方、これに反してステファノを訴えた人々は、神殿を、神御自身のごとく神聖化していたわけです。そして神殿の破壊に言及した主イエスを宣べ伝えていたステファノを、神への冒涜として訴えたのです。ここでステファノは、イザヤ書66章1節と2節前半から引用して、このことを明らかにしています(49節)。大切なのは、ステファノが直接引用しなかった66章2節の後半部分です。「わたしが顧みるのは/苦しむ人、霊の砕かれた人/わたしの言葉におののく人」。ステファノを訴えている人々は聖書の教師ですから、イザヤ書66章の最初を引用すれば、その続きは自ずと思い浮かぶのです。こうしてステファノは「あなたたちは神殿を神のごとく神聖化しているが、神が顧みてくださるのは苦しむ人、霊の砕かれた人、神の言葉におののく人なのではないか」と、聖書に基づいて彼らの間違いを指摘したのです。ステファノを訴えている人々は神の言葉におののくどころか、この預言の言葉を無視し、人の手の業である神殿を神のごとく奉っていました。これは人の手の業を楽しむ偶像礼拝に他なりません。
結局のところ神の使者は、自分たちの手の業を楽しもうとする偶像礼拝者によって拒まれます。いつの時代にもそうです。誰もが神の業ではなく自分の手の業を楽しみたいからです。しかし神が顧みてくださるのは、自分の手の業で大きなことを成し遂げた者ではありません。苦しむ人、霊の砕かれた人、神の言葉におののく人。このような人々を、神は顧みてくださいます。ですからわたしたちも、日々の苦しみに目を向け、神の御前に砕かれ、御言葉におののく者としての歩みを、共になしてまいりましょう。