2019年11月24日礼拝説教「ノアの家族の欠け」

 

聖書箇所:創世記9章18~29節

ノアの家族の欠け

 

 ノアの箱舟の物語の最後の部分を見てまいりましょう。この箇所は、読み飛ばされてしまうことが多いかもしれません。ここに記されているノアの姿は、わたしたちが通常思い描くノア像とは異なります。だからこそ、この御言葉に真剣に向き合う必要があるように思うのです。

 18,19節では、箱舟から出てきたノアの息子たちが紹介されています。全世界の人々は、彼らから出て広がっていきました。これが、10章の系図に続いていくわけです。旧約の系図は、人の生き方とつながっています。ここで言いたいことは、全人類の誰もが、セムかハムかヤフェトのうちの誰かの生き方をしているということです。創世記の想定読者である神の民イスラエルの先祖はセムです。読者がここを読んだとき、自分はセムの生き方をすべきだとを教えられるのです。ところでイスラエルには、カナンの地が与えられると神から約束されていました。ハムがわざわざ「カナンの父」と説明されているのは、ここに理由があります。10:15以下にはカナンの子孫が列挙されています。ここに記されているのは、カナンの地にもともと住んでいた民族の名前です。彼らはいわばハムの生き方をする人々です。彼らの生き方に倣うのではなく、セムの生き方によって乗り越えなければならない。これがイスラエルの人々の使命であるわけです。それでは、セムとハムとヤフェト、それぞれの生き方を見ていきましょう。

 ことの始まりは、酒に酔ったノアが天幕の中で裸で眠ったことから始まります。ノアの恥の姿です。立派な人物であればあるほど、その人の失態はゴシップやスキャンダルのネタになります。これを父に対して行ったのがハムなのです。彼は自分の父の裸を見て、二人の兄弟に告げました。ハムは父の醜態をそのままにして兄たちに告げています。お前たちも父の恥ずかしい姿を見てみろよ、と言いたげです。結局ハムの生き方とは、誰かの恥ずかしい姿を探し回る生き方です。それを見つけたならば、声を大にして皆に告発する。こうして、そのような恥の行為をしていない自分を高めようとする。それが、ハムの生き方です。セムとヤフェトはどうしたでしょうか。父の裸を見ることなく、その裸を覆いました。ハムとは逆です。「愛は多くの罪を覆う」(一ペトロ4:8)という御言葉につながる行動でありましょう。罪を皆に言いふらすのではなく、見て見ぬふりして放置するのでもなく、恥を覆い、罪から離れて立ち直ることができるように行動したのです。この点で、罪を放置し、恥を言いふらしたハムとは正反対です。この違いが、10節以降のノアの歌に反映されていきます。

 ではセムとヤフェトの生き方の違いはどこにあるのでしょうか。それが26,27節に示されています。まず27節のヤフェトを先に見ましょう。「神がヤフェトの土地を広げ」とあります。実際にそのとおりになります。10:2以下にヤフェトの子孫が記されていますが、そこで挙げられているのは、当時の名だたる大国に連なる民族です。つまりヤフェトの生き方とは、自らの功績によって自らが発展していく歩みです。人の恥を言いふらし、その人をおとしめて自らを高めようとするハムの生き方よりはまだ祝福があるでしょう。しかし「自らを高める」という生きる目的においては、ハムの生き方との共通性もあるのです。ではセムの生き方はどのようなものでしょうか。26節には「セムの神、主をたたえよ」とあります。セム自身はたたえられていません。自らの行いをとおして、自分ではなく主なる神がたたえられる。これがセムの生き方です。また、ここで「セムの神」と言われている言葉にも注目したいのです。自分ではなく神がたたえられるセムの生き方とは、主なる神がわたしの神でいてくださる生き方でもあるのです。これこそ神の民イスラエルの先祖であるセムの生き方であり、神の民の歩むべき生き方です。なお27章の2行目を見るとヤフェトは、いずれ「セムの天幕に住む」ことになります。いくらヤフェトが自らの功績によって力をつけようとも、最終的に勝利するのはセムの生き方なのです。

 

 ここでは決して、セムの子孫であるイスラエルが特別優れているという民族主義が主張されているのではありません。カナン人であっても、主を恐れてイスラエルを助けたラハブは、神の民の一員として大きな祝福を得ています。彼女がセムの生き方をしたからです。一方エゼキエル書では、神の民が父の裸をあらわにしたことが非難されています(エゼキエル22:10)。神の民であっても、ハムの生き方をすれば呪いの対象となります。大切なことは「誰の生き方を選び取るか」です。全世界の人々は、セムとハムとヤフェトから出て広がりました。それゆえ誰もが、この三人のいずれかの生き方をなすことになります。そして本来のわたしたちは、ハムやヤフェトの歩みをすることしかできませんでした。しかし神の民とされたことによって、セムの生き方を始めることができるようにされました。ただ神の民とされたからといって、自動的にセムの生き方になるのではありません。セムの生き方を選び取っていくことが必要です。周りの人々の罪と恥を覆い、それによって自分ではなく神がたたえられる生き方を選び取るべく、わたしたちは神の民とされたのです。この生き方は、ハムやヤフェトの生き方とは違って自分が高められる歩みではありません。一見すると損な歩みです。しかしこの歩みをとおして、主なる神がわたしの神でいてくださるのです。この幸いを、神の民とされたわたしたちは受けたいのです。ハムやヤフェトの生き方を実践する人々がいかに自分を高めようとも、最終的に神から勝利をいただけるのはセムの生き方を歩む者です。この勝利を目指して、セムの生き方を選び取っていこうではありませんか。