聖書箇所:使徒言行録7章54節~8章3節
自らへの悪を赦す祈り
本日からアドベントに入ります。クリスマスにおける主イエスの誕生を待ち望むときです。キリスト教の信仰において「待つ」ことが重要な意味を持っています。「待つ」ということは、現在の状況が理想なものではないということでもあります。今が理想的な状況にあるならば、待つ必要などないからです。今日の御言葉には、理想とは程遠い状況が描かれます。葛藤、叫び、涙があります。だからこそ、我々は救い主を待つのです。では、どのような希望をもって待つべきでしょうか。御言葉から聞きましょう。
死を目前にしたステファノは、神の栄光と主イエスが見えると語ります。この発言は、ステファノこそが神の栄光と主イエスを証ししていると示すものです。それゆえ彼に反対する人々の反応は激しいものとなりました。激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりしました。57節以降、神に逆らう人々が大きな力を持ってステファノに襲いかかり、ステファノは殉教します。非常にやかましい場面です。人々もステファノも大声で叫んでいます。しかし叫んでいる内容は正反対です。人々は、手で耳をふさぎました。ステファノの語る言葉の拒否です。もはや聖書に基づいた理論的な反論ではありません。自らの立場をステファノが否定したことに対する拒否です。彼らはレビ記24章や申命記17章にある規定に基づいて、ステファノを都の外に引きずり出して石を投げ始めました。彼らはステファノが示した聖書の御言葉には耳をふさいで聞きませんでしたが、ステファノを殺すことにおいては都合のよい御言葉を都合よく用いたのです。聖書を全否定するのではなく、都合よく用いる。それが神に逆らう者の姿です。一方ステファノは、自らに一斉に襲い掛かって来る人々の叫び声を聞き、そのなかで祈ります。「主よ、わたしの霊をお受けください」と。そして大声で「この罪を彼らに負わせないでください」と続けます。ステファノは、自分を殺そうとする人々の赦しを願いました。赦すといっても。単に自らへの悪に無抵抗だったのではありません。この祈りに至るまでに、彼は長い弁明の言葉を語り、厳しい言葉で人々の罪を明らかにしました。それは彼らが悔い改めて救われることを願ったからです。神の御心に反する行為を自分に行う相手の滅びではなく、救いを願い続けること。これこそ赦しであり、ステファノの祈りです。この祈りは、主イエスの十字架上の祈りに通じています(ルカ23:34)。この主イエスを、ステファノは最後まで証しし、眠りにつきました。
ステファノの殉教をきっかけに、教会に対して大迫害が起こります。そのような中でステファノが、大きな悲しみの中で葬られました。教会への迫害は激しく、教会を支える役員の一人が殺されてしまった。教会の危機です。これほどまでに教会を苦しい立場に追い込んだ中心人物として登場するのがサウロ、のちのパウロです。彼はステファノに石を投げた証人たちの脱いだ上着の番をしました。そして、ステファノの殺害に賛成していました(8:1)。その後も家々を回り、信者を次々と牢に送りました。教会側の立場からすれば、サウロは神によって真っ先に滅ぼされるべき罪人だったでありましょう。そんな彼が後に主イエスと出会って回心し、使徒として大きな働きをすることになります。サウロにこれほどの変化をもたらしたきっかけの一つが、ステファノの赦しの祈りなのです。アウグスティヌスが「ステファノが祈らなかったなら、教会はパウロを得なかったであろう」と記しています。死の間際のステファノの赦しの祈りが、驚くべき神の御業に用いられたのです。
ステファノが何の葛藤もなく、安らかな気持ちでこの祈りを祈ったとは、わたしには思えません。彼は言われもない告発を受け、殺されようとしているのです。痛みがあり、怒りがあります。赦しを祈ることに、大変な葛藤があったでしょう。人の思いでこのような祈りは出来ません。だからこそステファノは、聖霊に満たされて祈ったのです。牧師をしておりますと、敵をも赦せという御言葉に対する葛藤に直面します。誰しも、どうしても赦せない人がいるのです。このような葛藤は、決してあってはならない感情ではありません。その葛藤のなかで、なお自分が赦したくない人々の赦しと救いのために祈るようにと、招かれているのです。この葛藤を避けることはいくらでもできます。大声で叫びながら、耳を手でふさいでしまえばいいのです。そうすれば、赦したくもない相手の声を聞かくて済みます。そして赦せない相手の滅びを祈り、滅びの石を投げてしまえばよいのです。ステファノを殺した人々のように。そのほうが、きっと気持ちはすっきりするでしょう。しかし、赦せない相手に葛藤なく滅びの石を投げつけるところに、主イエスの十字架による救いは現れるでしょうか。
主イエス御自身も、大きな葛藤の中で十字架にかかられました(マタイ26:23)。主イエスは葛藤を耐え忍ばれたのです。この忍耐によって救われたわたしたちが、赦せないけれど赦さなければならない葛藤を避けてはならないでありましょう。赦せないけれども、赦すように召されている。この葛藤の中で、わたしたちが涙を流しながらも、赦しを祈るよう、聖霊によって背中を押されるのです。そしてこの葛藤の中での祈りをとおして、主イエスの救いの御業は世に現れるのです。この葛藤を、何の痛みもなく相手を赦せという理想論で片づけるべきではありません。理想ではないからこそ、ただ葛藤と戦うだけではなく、救い主による解決を待つのです。これこそ救い主を「待つ」アドベントです。救い主が再び来たならば、葛藤の中で流された涙はすべて拭われると約束されています。だからこそそのときを待つ今は、葛藤を恐れずに赦せない人々の罪の赦しと救いを祈り始めましょう。わたしたちにそうさせるのは、自分の意志や力ではなく、聖霊の力です。