聖書箇所:使徒言行録9章10~19節a
神が選ばれる器
この物語はサウロだけが注目されがちですが、今日の箇所ではサウロよりも主なる神とアナニアとのやり取りが多く記されています。神とのやり取りを経たアナニアによって、サウロが立ち上がらせられていきます。この一連の過程から、神が選ばれる器とはいったい何なのかを教えられたいのです。
アナニアについては、後に22:12においてサウロ自身が語っています。彼は律法を重んじており、ユダヤ人からの評判も良かったようです。そんなアナニアに、主はお命じになります。立て、そして、サウロを訪ねよ。それができるように、サウロの居場所も告げられています。さらに主は、今のサウロの様子もアナニアに明かされます。サウロは祈りつつ、アナニアについての幻を見ています。アナニアは、ただサウロを訪ねるだけでなく、この幻にしたがって行動することが求められています。しかしアナニアは、すぐに出かけようとしませんでした。彼はそれまでサウロがなしてきた悪事と、ここでなそうとしていることを主に告げます。13節でアナニアはサウロのことを「その人は」と言っていますが、原文に則すならば「この男は」という言葉です。この呼びかけ一つで、アナニアのサウロに対する感情は明らかです。そしてそれは当然です。アナニア自身もサウロに捕まる危険があります。そんな男のところに行けと言われたアナニアの心情は、わたしたちもよく理解できるでしょう。一方で主の御心もまた、非常に明確です。「行け」です。なぜならサウロこそが、主が選ばれた器だからです。それは、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために用いられる器です。「伝える」とは意訳でして、直訳すると「運ぶ」です。文字通り主イエスの名を入れて運ぶ器としての役割を、サウロはこれ以降の物語で担っていくことになります。異邦人といえば、それまでサウロが救いの外にあると理解してきた人々です。また王たちやイスラエルの子らは、これからサウロを苦しめ迫害する人々です。いずれもサウロにとっては、顔も合わせたくない人々です。そこに主イエスの名を運ばなければならないのです。それゆえにサウロは、今後大いに苦しむことになります。16節の「苦しみ」という言葉は、主イエスの受難を示す言葉でもあります(1:3、3:18、17:3)。主イエスの受難の中心は、御自分を憎む人々を救うための十字架の苦しみです。そしてサウロもまた、自分を憎むような人々に主イエスを証ししていく働きをなすことになるのです。その働きのための器として、おどろくべきことに神はサウロを選ばれたのです。
ところでサウロが神の選びの器であることは、サウロではなくまずアナニアに語られています。サウロのところに行きたくないアナニアを説得するための主の言葉です。この言葉に押し出されて、アナニアはサウロのところに出かけていきます。これ以降、彼はもはやサウロのことを「この男」とは呼びません。「兄弟サウル」と呼びかけます。そしてアナニア自身は、自分が主イエスに遣わされた者に過ぎないことを語ります。それによって、サウロが目を開かれて聖霊に満たされることを、彼に迫害され続けた主イエス御自身が望んでおられることが示されるのです。御自分を憎む者を救われる十字架の主イエスの愛が、このときサウロにも向けられています。こうしてサウロは元どおり見えるようになりました。彼は身を起こして洗礼を受けました。身を起こすとは、単に「立つ」という動詞ですが、復活を指す言葉でもあります。それまでの生き方に死んだサウロが、新しい生き方へと立ち上がり、復活したのです。そして食事をして元気を取り戻しました。サウロは三日間食べも飲みもしなかったのですから、彼がこれから大変な歩みをするためには心だけでなく体も整えられる必要がありました。
主イエスと出会う前のサウロは、気に入らない人々の歩みを強制し、反抗する者を殺す生き方をしていました。このように歩んだサウロは、神の御前に死にました。そしてアナニアに手を置かれることによって、彼は身を起こして、復活しました。今度は自分を憎む人々の救いのために働く者となっていくのです。ところでこのお話のなかで、このように大きく歩みを変えられたのはサウロだけでしょうか。アナニアもそうなのです。当初のアナニアも、神から「立て」と命じられたのに立とうとしませんでした。サウロを「この男」と呼び、このような人は救われるべきでないと主張していました。主イエスと出会う前のサウロと同じではないでしょうか。しかし主の言葉によってアナニアも変えられました。自分を殺すかもしれないサウロを兄弟と呼び、彼のところに主イエスの名を運んだのです。主によって変えられ立ち上がらせられたアナニアによって、今度はサウロが立ち上がり、同じ働きへと召されていくのです。この連鎖が続いて、いまわたしたちが救われてここにいるのです。今やわたしたちもまた、彼らと同じ働きへと召されているのです。
このような働きへと召されるときに、わたしたちも当初のアナニアと同じ思いに駆られることがあると思うのです。しかし神は「行け」と言われます。どれほど救いから遠く見えようとも、神は必ず選ばれた器を救いに導かれるからです。今日のアナニアが、サウロの姿をとおしてそれを目の当たりにしました。神は選ばれた者を、必ず救いに導かれるのです。それゆえにわたしたちはもはや、誰の救いをも諦める必要はないのです。いかに救いから遠い状況にある人であろうとも、神は選びの器となる人を必ず救いへと導かれるからです。だからこそ、わたしたちは決して諦めることなく、主イエスの名をあらゆる人々に運び続けようではありませんか。神は選びの器である人々を必ず救いに導いてくださるのですから、主イエスの名を運ぶわたしたちの希望は決して失われることはありません。