2020年2月2日礼拝説教「滅ぼす者から伝える者へ」

 

聖書箇所:使徒言行録9章19b~25節

滅ぼす者から伝える者へ

 

 主イエスに出会ったことによるサウロの変化は、周囲の人々が驚き戸惑うほどのものでした。主イエスは実際に人の生き方を変える力を持っておられます。しかし主イエスがもたらされる変化とは、一体どのようなものなのでしょうか。是非ともパウロの姿から教えられたいのです。

 洗礼を受けたサウロは、ダマスコの弟子たちと数日間一緒にいたあと、すぐにあちこちの会堂で主イエスのことを宣べ伝えました。彼が弟子たちと数日を共にしたのは、宣教の働きが個人プレーではないからでしょう。彼は直接主イエスから啓示を受けましたが(ガラテヤ1:12)、それでも彼は弟子たちとの交わりのなかでそれを宣べ伝えました。彼の生き方の変化は、自らが属する交わりの変化でもあったように思います。

 さて、主イエスを宣べ伝えはじめたサウロは、周囲の人々に驚きをもたらします。サウロの言葉を聞いた人々の発言が21節に記されています。サウロがエルサレムでなしたこととダマスコに来た目的を、彼らは知っていました。しかしいざサウロが来てみると、彼はそれとは全く反対の行動をしています。人々が驚くのは当然です。周囲の人々の驚きをよそに、サウロはますます力を得て人々に主イエスのことを宣べ伝えました。サウロが宣べ伝えていた中心的な内容が記されています。20節の「この人こそ神の子である」と、22節の「イエスがメシアである」です。神の子も、メシアも、旧約聖書にある救い主を指す言葉です。主イエス・キリストこそ旧約聖書において神が約束してくださっていた救い主である。このことをサウロは人々に伝えました。しかも、ただいたずらにそれを主張したのではありません。22節には、論証した、とあります。旧約聖書から理路整然と論証したのです。サウロはもともと熱心なユダヤ教徒です。抜群の聖書知識を持っていました。その知識を用いて、主イエスが救い主であると証明したのです。ここに、ダマスコに住んでいるユダヤ人たちがうろたえた理由があります。彼らも旧約聖書を信じている人々だからです。もしサウロが全然違う書物によって主イエスが救い主だと主張したならば、ユダヤ人たちは無視することもできたでしょう。しかし自分たちも信じている旧約聖書を用いて、主イエスが救い主であることをサウロは論証しました。それが、23節以降に彼らがサウロを殺そうとした動機となります。彼らはサウロを殺して黙らせなければ、自分たちの立場を守ることができなかったのです。

 こうしてサウロの変化が周囲の人々に様々な反応をもたらしました。サウロの何が変わったから人々は驚いたのでしょうか。それは何よりも価値観の変化です。以前のサウロは、主イエスを神に逆らう無価値なものと考えていました。しかし主イエスとの出会いによって、この方が十字架と復活によってもたらされた救いにこそ価値がある、という価値観へと変えられたのです。主イエスとの出会いは、価値観に変化をもたらします。それまで一番大切だったものが、一番ではなくなります。それまで何の力もないと思っていた主イエスが、このうえない価値を持つお方になります。これが主イエスと出会うことによる変化の中心です。価値観が変われば、行動も変わります。サウロはもともと、主イエスに従う者を滅ぼしていました(21節)。しかし主イエスとの出会いにより、自らが主イエスに従う者となりました。こうして彼は、主イエスの福音を宣べ伝える者となりました。これが彼の立場にも変化をもたらしました。おそらくユダヤ教徒であった頃のサウロは、その熱心さの故に周りから尊敬されていたと思われます。それを後ろ盾にして、彼はキリスト者を滅ぼそうと躍起になっていました。しかしサウロ自身がキリスト者になり、今度は彼が命を狙われる立場となりました。彼はキリスト者になることによって、様々な苦難をしょい込むことになったのです。

 このように主イエスとの出会いによって大きく変えられたサウロですが、変わらなかったこともあります。サウロの性格です。特に神に仕える熱心さは、変わることはありませんでした。そしてまた、彼がもともと持っていた旧約聖書の知識も変わることはありませんでした。ユダヤ教徒であった頃に得たであろう豊富な知識が、主イエスが救い主であると論証するのに大いに用いられたのです。彼の性格や知識を、神の働きのために用いようとされたのです。この面にも、是非とも目を向けたいのです。

 わたしたちも主イエスとの出会いによって変えられました。それは価値観の変化であり、行動の変化です。だからこそ、この貴重な日曜日に、時間とお金を使って教会に来ているのです。ただし、主イエスとの出会いによって、わたしたちの中のすべてが変わるのではありません。サウロの神への熱心さと旧約聖書の知識は、主イエスと出会った後も変わることがなく、その後の働きのために活かされました。わたしたちも同じです。それぞれに性格があり、知識があります。個性があるのです。主イエスと出会いを経ても、それは変わりません。変わることなく、神のために活かされるのです。ここに集められたお一人お一人の個性を、神は求めておられるのです。

 

 クリスチャンという存在には、ある理想像がついて回るように思います。それに縛られて、自らの個性を殺してはいないでしょうか。理想的なクリスチャンを演じてはいないでしょうか。主イエスとの出会いによる変化は、そんな窮屈なものではありません。わたしたちが主イエスとの出会いによって価値観が変えられて、神に従う行動を始めるとき、わたしたちが持っている個性が主イエスを宣べ伝える働きのために大いに用いられるのです。このときわたしたちは、神に用いていただいた自分という存在を、心から喜ぶことができるのです。