聖書箇所:創世記11章1~9節
混乱と分断へ向かう人々
創世記は、この11章までが原初史と呼ばれる一つの区切りとなります。12章からは神の救いの物語が始まります。そこにおいて神はアブラハムをお選びになり、またその子孫であるイスラエルをお選びになります。こうして選ばれた人々をとおして、神は人々を罪から救おうとなされます。その直前に、バベルの塔が記されています。ですからここに登場する人々は、まだ神の救いに与っていません。ひとまず神に命は支えられて生きてはいるが、神による救いに与ることなく罪の中に生きている。それがバベルの塔に登場する人々の姿です。
このバベルの塔のお話の舞台であるシンアルの地は、メソポタミア文明が栄えた地です。彼らはレンガを発明します。この地域はこの当時の文明の最先端でありました。技術も、そして恐らく富も力も持っていたでありましょう。現在でも、そのような国は他の国から見れば憧れの的です。しかも彼らは同じ言葉を使って、同じように話していました。言葉が通じることによって、思いを共有していました。簡単に言えば、仲が良かったのです。わたしたちは原則的には、喧嘩はダメで仲良くすることがいいことだという教育を受けてきました。東日本大震災以降、絆という言葉が強調されて、特にこの傾向が強まったように思います。教会でも、隣人を愛し、敵を愛するという御言葉のもとに仲良くすることが推奨されます。しかし、仲が良ければそれでいいのでしょうか。今日登場している人々も、仲はいいのです。皆が心ひとつになっています。しかし協力して行おうとしていたことは、天にまで届く塔のある町を立てて、有名になることでした。聖書のいう“天”とは、神の住まいを指します。ですから彼らは協力して、神の領域に達しようとしたのです。そんな彼らの心には、全地に散らされることへの恐れがありました。ところで神は人を造られたとき、「地に満ちよ」と言って人を祝福されました(1:23)。ですから、全地に散らされることの拒否とは、この神の祝福の拒否です。神の祝福を拒否し、自分たちが神のごとくなるために仲良く協力する。これが救いに与る前の人々の姿なのです。
このような人々の様子を神がご覧になる様子が、5節以降に記されています。ここで神は「これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない」と言われています。これは、皆で協力して神から離れていってしまう人々を、妨げるものがないことへの嘆きです。神は決して人を恐れているのではありません。そもそも5節を見ますと、神は降ってきて、人の子らが建てた塔のある町をご覧になっています。人々が天にまでとどかせようと協力して建てた塔ですら、神にとってはわざわざ降らなければ見ることができない出っ張りに過ぎないのです。人が自らの力で天に達することなど不可能です。
さて神の祝福を拒否し、神の領域にまで達しようとした人々を見て、神は裁きをなされます。神は彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしました。ここで起こった事態は、単にたくさんの言語ができたということにはとどまりません。「聞き分けられぬ」とは、「聞き従うことができない」という意味でも用いられる言葉です。お互いの言葉に聞き従えなくなったのです。ここで起こっているのは、言語の分断以上に心の分断です。わたしたちの多くは日本語を話していますが。しかし日本語を話す人々の間ですら、自分とは違う人々の声を聞けなくなり、心の分断が起こっているのが現実です。こうして、人々は言葉の混乱により分断へと向かうことになりました。そして全地に散らされました。彼らの恐れていたことが現実となったのです。神が人への祝福として「地に満ちよ」と言われた言葉が、神の呪いとして実現することになりました。これは神の罰という面もりますが、同時に、人々が結託して神から離れていくのを妨げるための処置でもあるのです。ここには神を拒否する人の愚かさと、それでもなお人々を御自身のもとに引き留めようとされる神の愛が示されています。
こうして、12章からは神の救いの御計画が始まります。神は罪の中で混乱と分断のなかにある人々を、回復させようと行動を起こされました。その中心が、主イエスキリストの十字架と復活でありました。そしてその後のペンテコステで起こったことこそ、バベルの塔で起こった混乱と分断からの回復です。このとき弟子たちは主イエスの霊を受け、様々な国の言葉で話し始めました(使徒2:4)。主イエスによる救いが、言葉の混乱を超えたのです。主イエスの救いに与るとき、人々は混乱と分断から回復されるのです。主イエスの救いの御言葉に聞くときに、わたしたちは本当の意味で共に生きることが許され、一つとされるのです。そして互いの言葉に聞き従いあうことができるのです。
残念ながら、今の世の中は混乱と分断の中にあります。自分とは違う人々の声を聞かず、黙らせようとする。殺してしまう。そのような混乱と分断の世界の中に、わたしたちは生きています。しかしこの日曜日に、わたしたちはこうして救いの御言葉に聞いています。混乱と分断からわたしたちを回復し、互いの言葉を聞くことができるようになり、共に生きることへと導く恵みの御言葉を、いまわたしたちは聞いているのです。この御言葉によってわたしたちは、本当の絆で結ばれるのです。これは表面上、ニコニコしているだけのうわべだけの仲の良さではありません。御言葉に聞くことによってわたしたちは、喜びも悲しみも、時には怒りも共にします。なによりも主イエスの十字架と復活の救いに共に与り、共に神に従う歩みへと回復されるのです。こうして御言葉によって一つにされたわたしたちは、いまだ言葉の混乱と分断の中で苦しむ人々のところへと遣わされていくのです。