聖書箇所:使徒言行録10章1~8節
祈りと施しは神の前に届いた
新型コロナウイルスの脅威が続いています。危機のとき、人の本当の姿が現れるように思います。買い占めの現場で怒号がとぶ一方、この危機のなかで親身になって痛みに寄り添おうとする方々もいらっしゃいます。普段隠れて見えないその人の根本にある在り方が、この危機のなかではよく見えるのです。わたしたちも、自分自身の在り方が問われているように思います。特にわたしたちは神を信じる信仰者です。この危機の中で、自分は神の御前にどうあるべきなのでしょうか。コルネリウスは、神の天使に「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた」と言われています。彼の在り方が神に覚えられたということです。彼はわたしたちにとっての、ひとつの模範と言ってもよいと思うのです。
このコルネリウスは、カイサリアという町に住んでいました。地中海沿岸の町でして、皇帝カエサルの功績にちなんで整備された主要な町の一つでした。彼はそこで、イタリア隊と呼ばれる百人隊の隊長をしていました。ここから、彼がある程度の地位を得た人であることが分かります。そんな彼は、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていました。このなかで、「信仰心があつい」という言葉は、通常ユダヤ教を信仰する異邦人を指す言葉です。まだ割礼を受けていないのでユダヤ人ではない。しかし、ユダヤ教を信仰し、旧約聖書に示された真の神を信じている。それがコルネリウスでした。彼は民に多くの施しました。この後、彼がすべてのユダヤ人に評判の良い人だと紹介されています(22節)。ですから、彼が施しを行った民とは、具体的にはユダヤ人だったと考えられます。彼は、旧約聖書の神を信じる信仰の行為として、旧約聖書に示されている救いの中心であるユダヤ人に施しをしたのです。彼は旧約聖書にある神の救いを待ち望んでいました。ではユダヤ人たちは、彼をどのように見ていたのでしょうか。彼がすべてのユダヤ人に良い評判を得ていた一方で、28節を見ますと、異邦人であるコルネリウスたちは、ユダヤ人との間に大きな隔たりがあったことがわかります。
この当時、ユダヤ人と異邦人には明確な線引きがありました。彼は信仰の行為としてユダヤ人のために多くの施しをしました。しかしこれほどまでに信仰に生きた彼は、会堂(いまで言うところの教会)で神の御前に中心的な役割を担った人ではありませんでした。会堂において、彼はあくまで異邦人、あくまで脇役です。コルネリウスは百人隊長でした。世においては出世を勝ち取った人ですし、それによってイタリア隊という一つの部隊においては主役を担った人でした。そんな彼が、異邦人という脇役の立場でありながら、ユダヤ人に施しを続けたことは並大抵のことではなかったように思うのです。しかも、彼だけではなく一家をあげて神を畏れていました。それが彼の信仰でありました。そんな彼のもとに、神の天使が遣わされました。午後三時ごろのことでした。午後三時は、祈りの時間です。この祈りのときに、天使はコルネリウスに4~6節の言葉を語りかけました。救いを求め続けたコルネリウスを神は覚えてくださったのです。11:13、14では、ペトロがこのときのことを証言しています。この証言から、天使はコルネリウスに対して、目的も告げずにペトロを招きなさいとだけ言ったのではないことが分かります。神の救いを求め続けた彼と家族に、ペトロがあなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる。だから彼を招きなさい。これが天使の告げた言葉だったのです。そしてコルネリウスは告げられたとおりに行動しました。
コルネリウスが神に覚えられたのは、異邦人という脇役でありながら、すべてのユダヤ人に評判になるほどの施しを行った彼の在り方です。おそらく彼は、並みのユダヤ人よりも多くの施しと祈りをしていたと思うのです。しかし彼は、ユダヤ人を押しのけて自分が主役になろうとはしませんでした。ここに、神に認められたコルネリウスの在り方を見ることができるのです。 人間誰しも、自分が主役になりたいと思うものです。世においては、沢山貢献した人が偉くなり、主役になっていきます。それが行きすぎて、主役にならなければ生きられない、そこから外れたら希望はない。そのような考え方が幅を利かせている社会になってはいないでしょうか。それだけでなく、わたしたちのなかでも暗黙のうちに、教会の主役になるようなキリスト者の理想の歩みを持ってしまってはいないでしょうか。例えば、「幼児洗礼を授けられた契約の子が、中高生で順調に信仰告白し、一度も教会を離れることなく役員として教会に仕えていく」ですとか「成人洗礼したあと、熱心に奉仕をして教会を中心的に支えていく」ですとか。しかし多くの場合、そのような理想の歩みはできません。それゆえに悩むのです。誰かに(特に若者や子供たちに)、この理想の歩みを押し付けてしまうことも起こりえます。しかし、神は誰の在り方に目を留められたのでしょうか。コルネリウスのような、脇役であり続けた人です。そもそも教会に主役などいないのです。教会の主役は主イエスだからです。ですから、キリスト者として理想的な歩みをして教会の主役になることが大切なのではありません。そこから外れても、その歩みの中で自分のできる奉仕や祈りをしていく。そのような在り方が、神に覚えられるのです。
自分の思い描くような、キリスト者の理想的な歩みをする必要はありません。主役になる必要などないのです。脇役として、自分に与えられた歩みの中で、神に仕え、祈りを重ねてまいりましょう。これこそ神に覚えていただける、真に幸いな在り方なのです。