2020年3月22日礼拝説教「神が清めたもの」

 

聖書箇所:使徒言行録10章9~16節

神が清めた物

 

 福音が異邦人に広がっていくきっかけとなる出来事を見ています。福音が異邦人に広まったのは、ペトロやパウロといった主イエスを信じる者が異邦人のところへ出かけていったためです。しかしその支障となる教えが、この当時には実践されていました。28節のペトロの言葉にそれがあらわれています。今日の箇所に記されている幻を見なければ、ペトロはコルネリウスのところに行くことはなかったでしょう。言い換えますと、ペトロが異邦人であるコルネリウスのところに出かけることができるよう、神がその妨げを取り除かれたのです。

 ペトロが幻を見たのは昼の十二時のことでした。この時間は、祈りの時間でした。祈りの際にペトロは空腹を覚え、何か食べたいと思ったのでした。そのとき彼は、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見ました。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声を聞いたのです。この幻は、空腹であるペトロの状況に合わせて示されたものでした。ですから、声に従って食べるのがペトロの自然な行動です。しかし彼はそうしませんでした。それは、旧約聖書の食物規程があったからです(レビ記11章など)。食べることが禁じられているものが入れ物には入っていました。それをペトロは「清くない物」「汚れた物」と言っているわけです。ここでペトロが「清くない物」と言っているのは、もともとは共通の物・一般利用の物、という意味の言葉です。汚いという意味ではありません。一般的な用途に用いる物。特に異邦人も同じように用いる物。そのような食べ物を食べることを、ペトロはここで拒否したのです。

 ところで食物規程はなぜ律法に規定されたのでしょうか。そもそも 旧約聖書の律法は、異邦人から区別された神の選びの民の生きる指針でした。旧約の時代において、神の民か否かの区別には特別な意味がありました。なぜなら、救いは神の民から起こり、救い主は彼らから現れるからです。そのため、神の民か否かを区別のための一つとして、食物規程もあったのでありましょう。28節のペトロの言葉も、食物規程が関係しています。この地域の交際や訪問は、食事がつきものだからです。外国人と交際したり、その家に行ったりすると、食物規程に反する食べ物を食べざるを得なくなります。律法を守るための知恵として、外国人との交際や外国人への訪問が禁じられていました。ですから外国人との交際や外国人への訪問の禁止の実践は、本来的には外国人を低くみるためのものではありません。

 このように、異邦人との区別のために食物規程があり、その実践のために外国人との交わりに制限が加えられていました。このような背景のなかで、ペトロは「主よ、とんでもないことです」と答えたのです。これに対して神はお答えになられます。

「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」

神はもはや食物規程が有効なときが終わったことを宣言されました。神の民と異邦人の区別によって示されるべき神の救い、すなわち主イエスキリストはもう現れたからです。もはや食物規程による区別は不用となったのです。しかし依然として食物規程と、それに基づく外国人との交際の制限が実践されていました。これを神は取り除かれたのです。同時に神は上述の言葉によって、ペトロの姿勢を戒められました。この言葉は文法上「あなた」が強調されています。神が清めた物を、あなたが、清くないと言うな。これは、清いか清くないかについてのペトロの自己判断への戒めでもあるのです。

 もともと食物規程を含むすべての律法の根拠は、神の御心です。しかしそれを形の上で守ることに専心するあまり、神の御心から離れて杓子定規に清いか否かを自己判断するような実践が行われていました。これが起こる根本的な背景にあるのは、律法を守っている自分は清い、律法を守っていない人々は清くない、という特権意識や差別意識です。このような思いこそ、主イエスの救いの知らさせが異邦人に広がっていくうえでの妨げなのです。この妨げを、神は今日の言葉によって、取り去られたのです。

 このように考えますと、ここで指摘されている問題は食物規程に限らなくなります。わたしたちにも、神に救われたことの特権意識や、救われていない人々への差別意識はないでしょうか。その思いのなかで聖書の言葉を自己判断し、神の救いに相応しい人と相応しくない人を自己判断することが起こります。そのような自己判断が、人々に福音を伝えることの妨げになるのです。神はときに、わたしたちの思いもよらない人を救いに選ばれます。だからこそわたしたちは、あれは清くない、この人は神の御心にかなわない、という自己判断をしてはならないのです。

 今は新型コロナウイルスの蔓延によって人が人と会うことが妨げられています。それは、仕方のないことです。しかしこのような措置をきっかけとして、様々な特権意識や差別意識が現れているように思うのです。自分たちはうまくやっている。でもあの国は、あいつらは、自分たちに迷惑をかけている。そんな声が、いたるところから聞こえてまいります。それが、罪の中にある人の姿なのです。そして隣人を愛せないわたしたちの姿なのです。わたしたちの心の中にあるこの妨げを、神は取り去られました。隣人として愛せる者としてくださいました。人が人と会うことが妨げられている今だからこそ、この事実に目を留めましょう。愛することへの妨げを取り去られる神の御心に生きる者でありましょう。このようにして神は、主イエスにある喜びの知らせを、人々に広められるのです。