聖書箇所:マタイによる福音書28章1~10節
予告されたとおりの復活
主イエスの復活という出来事に最初に触れたのは二人の婦人たちでした。彼女たちは、主イエスの死によって生きる土台を失っていました。そのような彼女たちにまず、主イエスの復活の喜びが与えられました。ところでこの場所には、主イエスの死後もそれまでの歩みを続けていた番兵たちもいました。しかし彼らにとって、イースターの出来事は恐怖でしかありませんでした。イースターの喜びは、生きる土台を失った人に対して与えられます。今周りを見渡せば、生きる土台を失っている人々で溢れています。わたしたち自身もそうです。このような今だからこそ、イースターの喜びを覚えるべきです。
今日の箇所は、二人のマリアが主イエスの墓を見に行くところから始まります。主イエスが墓に葬られた時、安息日が間近に迫っていました。ゆっくりと葬りをする時間はありませんでした。そこで安息日が明けた日曜日に、婦人たちは改めて主イエスの墓を見に行きました。すると主の天使が天から降ってきました。この天使の登場シーンには、いくつかのキーワードがあります。大きな地震、稲妻のような輝き、雪のように白い衣。これらは、旧約聖書において、主なる神が現れる際の描写に用いられている表現です(イザヤ書29:6、ダニエル書10:6など)。またマタイ17:2に記されている、姿が変わった主イエスとも共通点があります。ですからここで現れた天使は、単なる神の使い以上の存在です。天使を通して神御自身が現れたと言っても、言い過ぎではありません。
このように理解しますと、番兵たちが恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった理由もよく分かります。彼らは、神の御前に立たされたからです。他方、婦人たちは恐れつつも大きな喜びに満たされました(8節)。恐れのあまり死人のようになった番兵たちと、恐れつつも大きな喜びに満たされた婦人たち。この違いはどこから来るのでしょうか。天使の語りかけから見ることができます。まず天使自身が婦人たちに「恐れることはない」と言っています。主イエスが復活なさったからです。主イエスは、かねて言われていたとおり復活されました。原文に則して訳しますと、「彼が言ったとおりに復活された」となります。“彼”とは、主イエス御自身です。実際に16:21では、やがて多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっていることを、主イエス御自身が弟子たちに打ち明けておられます。先に主イエスの御言葉があって、そのとおりに主イエスが復活されました。加えて主の天使は、弟子たちにも主イエスがが復活されたことやガリラヤでお会いできることを告げるように婦人たちに命じます。これも、主イエスが十字架にかかられる前、すでに弟子たちに明かしておられたことです(26:32)。ですから主の天使は、ここで何か新しい事実を明らかにしているのではありません。主イエスがすでに語られた御言葉を、改めてここで思い起こさせているのです。ですから、この主の天使の言葉を受けとめるためには、あらかじめ主イエスの語られた御言葉を聞いている必要があるのです。主イエスの御言葉を聞いているか否か。これが主イエスの復活によって大きな喜びに満たされるか、恐怖のあまり死人にようにおびえるかの分かれ道です。主イエスは御言葉で示されたとおりに復活されました。それゆえこの復活は、御言葉を聞いている者にとって喜びとなるのです。
こうして主イエスの復活が告げられた婦人たちは、喜びの知らせを弟子たちに告げる者とされました。この歩みを始めたそのとき、主イエス御自身が婦人たちの前に現れました。「おはよう」と訳されているのは、もともと「喜べ」という言葉です。十字架に架けられ死んで墓に葬られた主イエスが、今、目の前に立って「喜べ」と言ってくださる。婦人たちの喜びは大変大きかったことでしょう。彼女たちの喜びが大きいのは、それまでの主イエスの死の悲しみが大きかったからです。死の悲しみの中心は、もう会えないということに尽きます。語りかけても返ってきませんし、相手から語りかけられることもありません。それゆえに死は別れであり悲しみなのです。主イエスは、この死の悲しみを打ち破られて復活されました。そして主イエスは婦人たちに現れてくださいました。そして主イエスは婦人たちに10節の言葉を語られました。主イエスが「わたしの兄弟たち」と呼んでくださる人々にもまた、復活の主イエスは出会ってくださるのです。では「わたしの兄弟たち」とは誰でしょうか。直接には主イエスの弟子たちです(28:16)。彼らは、主イエスの御言葉を聞いた人々です。復活の主イエスは御言葉に聞く人々と出会い、復活の喜びへと招いてくださるのです。今、まさにわたしたちは御言葉に聞いています。会堂であろうと、ライブ配信であろうと、関係ありません。わたしたちは御言葉に聞いています。そのことをとおして今、復活の主イエスはわたしたちにも出会ってくださっているのです。
世の力ある人々が、この大きな混乱のなかでなすすべなく死人のようになっています。そのようななかで御言葉に聞くわたしたちには、恐れながらも主イエスの復活を大いに喜ぶことが許されているのです。それだけでなく、この喜びを告げる者とされています。ではどう告げるのでしょうか。今、わたしたちは人々に自由に会いに行くことはできません。そのなかでまずわたしたち自身が、主イエスの復活を喜ぶ者であり続けることが大切です。世の人々は今、とてもイースターを喜べる状況にはないのです。だからこそ御言葉に聞くわたしたちが、本当のイースターの喜びに満たされることに大きな意味があるのです。これこそ、この困難な状況のなかで復活の主イエスと出会ったわたしたちが、今あるべき姿なのです。