聖書箇所:使徒言行録11章1~18節
非難から賛美へ
10章から始まった、異邦人コルネリウスが救われていくお話は、今日の11:18でひと区切りとなります。異邦人にも救いがおよぶこの物語は、神を賛美することへと至ります。わたしたちも神を賛美します。それは、神が驚くべき御業をなされたからです。神が常識を超えるお方だからこそ、わたしたちは神を賛美するのです。18節において人々が神を賛美しているのも、彼らの常識を超える驚くべき神の救いの御業が示されたからです。彼らの持っていた常識は、2~3節から読み取ることができます。ペトロを非難した人々は、割礼を受けている人々でした。当時のキリスト教はユダヤ教の一派ですから、キリスト教会の正式な会員になるためにも割礼が必要であるというのが当時の常識でした。そして割礼を受けるということは、聖書に従って生きることを約束していることを意味します。そのなかでも、この時代は食物規程を守ることが特に重要視されていました。ですから割礼を受けるとは、実際上は食物規程を守って生きることを意味していました。それが当時の常識的な聖書理解でした。使徒ペトロも当然割礼を受けていました。しかし彼は異邦人と食事をし、食物規程を守れない状況に身を置きました。それは彼が、食物規程を意図的に守らなかったことを意味します。このことが3節で非難されています。まして割礼を受けていない異邦人が救われるということは、非難の対象にもならないほど論外のことだったのです。
このような非難に対してペトロは、4~17節で順序正しく事柄を説明していきます。大きくわけると、12節までの前半部分と、13節からの後半部分に分けることができるでしょう。前半部分においては、ペトロが異邦人であるコルネリウスの家に訪問することになった経緯が記されています。ここで彼が強調しているのは、神の導きです。神がペトロに幻を見せ、清くない食べ物をも屠って食べよと命じました。そして神の霊が、「ためらわないで一緒に行きなさい」と彼を促しました。自分の意志ではなく、神の御意志としてわたしは異邦人の家に行って食事を共にしたのだ。これが、ペトロへの非難に対する直接の主張点だったと言えます。続いて13節以降の後半部分を見てみましょう。ここには、自分が訪問した異邦人の家で起こったことが語られています。その中心は、異邦人にも聖霊が降ったことです。その出来事が「聖霊が最初わたしたちの上にも降ったように」と説明されている点が重要です。割礼をすでに受けているわたしたちの上にも聖霊が降ったように、割礼を受けていない彼らに聖霊が降った。このことをペトロは人々に伝えています。もはや割礼の有無は、聖霊が降るかどうかには関係ないのです。聖霊が降るということにおいて重要なことは、14節にあるように救いの言葉を聞き、17節にあるように主イエス・キリストを信じることなのです。主イエスによる救いが実現したいま、割礼によって神の民か否かを区別する時代は終わったのです。主イエス・キリストによってもたらされた救いの言葉を聞き、彼を信じるようになった者に、聖霊が与えられる時代が、ここから始まったのです。
異邦人にも聖霊が降ったことを目の当たりにした、ペトロは16節において主の言葉を思い出します。ここで言わんとしていることは、「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは水による洗礼だけでなく聖霊による洗礼も受ける」ということです。つまり水の洗礼と聖霊による洗礼は結びついたものである、というのが主の教えなのです。ペトロの目の前で異邦人に聖霊が降りました。そして主の教えによれば、水による洗礼と聖霊による洗礼は結びついている。それならば、聖霊が降った異邦人たちに水の洗礼を授けることが神の御心であることは明らかです。この神の御心を、わたしのような者がどうして妨げることができたでしょうか。これがペトロの説明の内容になります。この言葉を聞いて、人々は静まります。これまでの常識では考えられない救いの御業が、神によってなされたことを知ったからです。神は、割礼を受けていない異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださった。この驚くべき出来事を知らされて、人々は神を賛美しました。
大前提として、神は御言葉に基づいて御業をなされます。だからこそ、わたしたちは聖書の御言葉を重んじます。しかし、それが自らの聖書理解に合わないことを非難することにつながることがあります。あれは聖書的ではない、これは信仰的ではない、と。これこそ割礼と食物規程の重要さをことさら強調して、ペトロを非難した人々の姿です。自らが持っている聖書の理解に固執するがあまり、神がなされた驚くべき救いの御業が見えなくなるのです。これは自らの持つ聖書理解や常識を重んじているのであって、聖書そのものを重んじる姿ではありません。しかしペトロを非難していた人々は、神を賛美する者へと変えられました。神の御業を見出し、それに基づいて自らの聖書理解を改めることができたからです。この柔軟さを持つ者でありたいのです。しかしこれは簡単なことではありません。自らの聖書理解に従って生きてきたそれまでの歩みを否定することになるからです。しかし自分の歩みを肯定するために、自らの聖書理解や常識に閉じこもり続けるならばどうでしょうか。それに合わない神の御業を非難する生き方しかできません。
神はわたしたちの理解を超える救いの御業を、聖書の御言葉に基づいてなしてくださいます。だからこそ神の御業に驚きつつ、自らの御言葉の理解や自ら常識を、そして自らの生き方を改革され続ける者でありたいのです。ここから神への賛美が溢れてくるのです。自らが改革されるような神の御業への驚きと、そこからあふれる神への賛美に満たされた教会こそ、“改革派”と名のついたわたしたちの教会のあるべき姿なのです。