2020年7月12日礼拝説教「主の御業を目の当たりにして」

 

聖書箇所:使徒言行録12章6~17節

主の御業を目の当たりにして

 

 ヘロデ王によって捕らえられた使徒ペトロが、奇跡的な神の御業によって助け出されました。それはヘロデ王がペトロを民衆の前に引き出そうとしていた日の前の夜のことでした。ペトロは、死んだも同然の状況から驚くべきことに救い出されたのです。ただ、牢に捕らえられていたペトロは、奇跡的な神の御業によって救い出されることを期待していたわけではなかったようです。ペトロは天使が現れたとき、眠っていました。もしペトロが神の御業によって救われることを期待いたならば、自分が殺される前の夜に眠りこけているはずがありません。しかも、天使によって救い出されているときですら、彼はそれが現実のものを思えず、幻を見ていると思ったのです。ペトロにとって、自分が牢から救い出されたということは、本当に思いがけないできごとだったのです。

 牢を出たペトロは、マルコと呼ばれるヨハネの母マリアの家に行きました。そこでは兄弟姉妹が集まって祈りがささげられていました。牢に捕らえられたペトロのために祈っていたのです。ペトロが門の戸を叩くと、ロデという女中が出てきました。夜中ですから、いきなり戸を開けることはしません。強盗かもしれないからです。ロデは門の前にいるのがペトロだと分かると、喜びのあまり戸を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていることを告げました。人々は、それを信じることができませんでした。「あなたは気が変になっているのだ」と言いました。ロデが本当だと言い張りますと、彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出しました。しかし人々が家の戸を開けてみますと、そこにペトロがいたわけですから非常に驚いたのです。ペトロが牢から救い出されたことは、ペトロだけでなく教会全体にとっても思いがけないことだったのです。ですから今日のお話は、ペトロや教会が神の奇跡的な救出を期待して祈り求め、そのとおりに神が奇跡の御業をなしてくださった、というものではありません。それゆえに今日の記事は、人の期待や祈りどおりに神が奇跡を行ってくださる、ということを伝えようとしているのではありません。神がなしてくださる奇跡の御業は、我々人間の思い描く期待をはるかに超えるものなのです。

 ペトロを見て非常に驚いている人々に対して、彼は手で制して静かにさせました。夜中ですから、人々が声を上げると目立ちます。兵士に見つかるとまた捕らえられてしまう恐れがあります。驚いている人々をまず静かにさせたうえで、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、「このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい」と命じました。この一文に、牢から出ることができたこの奇跡をペトロがどう理解しているかが示されています。「連れ出す」や11節にある「救い出す」という言葉は、旧約聖書の出エジプトのできごとに用いられる言葉です(出エジプト18章)。出エジプトは、個人の救いではなく神の民全体の救いのできごとです。わたしたちで言えば、教会全体の救いのできごとです。牢から救われたのはペトロですが、それは決して個人の救いにはとどまらないのです。ペトロ自身、教会の代表とも言える存在です(マタイ16:18)。主イエスの御跡を歩む教会に、神は驚くべき救いの御業をなしてくださったのです。またペトロは、このことをヤコブと兄弟たちに伝えるように命じました。ヤコブとは、主イエスの兄弟であるヤコブのことです。このあと、エルサレム教会を率いていく人物です。教会の代表者たちに、彼はこのことを伝えるよう命じました。このことからもペトロは、自らが牢から救い出されたことを教会全体のこととして受け止められる必要があると考えていたことが分かります。

 驚くべき救いの御業を体験した教会の代表であるペトロはその後、そこを出て他の所へ行きました。安全のために身を隠したのです。少々不思議に思われるかもしれません。彼は神の驚くべき御業で死の直前に救われたのです。自分に神の守りがあることは明らかです。恐れず出ていって、堂々と宣教してもよさそうです。しかし彼は身の安全を確保するために、隠れたのです。ところで使徒5:17以下には、今日のペトロと同じように使徒たちが捕らえられ、天使に助け出される記事が記されています。このときは、牢から救われた使徒たちがすぐに神殿の境内で人々に教えています。このとき使徒たちを捕らえた大祭司とその仲間たちは、民衆の目を気にして使徒たちに手荒なことはできませんでした。そのことを使徒たちも理解した上で、境内で教えていたと思われます。一方、今日の箇所でペトロを捕らえたヘロデ王は、ペトロを見つければすぐに捕らえて処刑することは明らかです。そうしますと、せっかく神が救い出してくださった自らの命が無駄になってしまいます。それを避けるために、ペトロは身を隠したのです。

 

 今日の箇所でペトロが救い出されたように、神は教会をも救い出してくださいます。しかしこの神の御業に頼り切って、これまで通りの歩みを続けることが信仰的なのではありません。神の守りを理由にして、目の前のことに向き合う努力を免除していないでしょうか。それは、今日のペトロの姿と合致する行動ではありません。神は危機のときに教会を見捨てることなく必ず救い出してくださいます。だからこそわたしたちも、目の前の困難に向き合いつつ、なしうる努力によって教会を守り抜いていきたいのです。神の守りに頼り切って、いたずらに危険を犯すことが信仰なのではありません。神の守りに安心し、何も変わらないことが信仰なのではありません。教会を救い出し守り抜いてくださる神の御業に、わたしたちも参加していくこと。これこそ神が救い出してくださった教会と、その教会の連なるわたしたち一人ひとりがとるべき、信仰の姿なのです。