2020年8月23日礼拝説教「救い主とわたしの値打ち」

 

聖書箇所:使徒言行録13章13~25節

救い主とわたしの値打ち

 

 救い主の値打ちが高いことは言うまでもありません。けれども、自分自身の値打ちを何に見出すか、誰にとっても難しいと問題です。特にわたしたちは、キリスト者という日本においては特殊な生き方をしています。キリスト者である自分の値打ちとは何でしょうか。ぜひ共に考えてまいりましょう。

今日の箇所は、パウロとバルナバの宣教旅行の続きです。キプロス島から船出し、ピシディア州のアンティオキアという町に至ります。そこで彼らは、安息日に会堂に入って席につきました。キプロス島のときと同様に、彼らはユダヤ教の会堂に入り、旧約聖書を受け入れている人々にまず宣教しました。そこでは安息日の礼拝が捧げられ、聖書の御言葉が朗読されていました。新約聖書はまだありませんので、この当時に聖書といえば旧約聖書がすべてでした。聖書の御言葉の朗読の後、会堂長たちがバルナバとサウロに励ましの言葉、すなわち説教をお願いしました。そこでパウロが立ち上がって説教を始めます。そこで語られた言葉が、47節まで続いていきます。この説教は長いですので、二回に分けてこの言葉に聞いてまいります。今日は25節までの前半部分です。ここで旧約聖書全体の流れが要約されています。会堂に集まっているユダヤ教徒の人々も、この旧約聖書はパウロと同じく受け入れています。ではこの旧約聖書をキリスト教はどう読み、どう理解していたのでしょうか。それが今日のパウロの言葉から見ることができます。

 説教は、神がわたしたちの先祖を選び出すところから始まります。先祖は複数形ですから、具体的には父祖と呼ばれる「アブラハム、イサク、ヤコブ」を指しています。彼らは、ユダヤ教徒にとっては重んじられるべき信仰の源泉であり、また信仰の偉人たちでした。この父祖たちの子孫が、エジプトに滞在することになります。神はこの地でイスラエルの民を強大なものとし、そこから導き出してくださいました。単純にエジプトでイスラエルの民が数を増やして強大になったということだけではありません。神がこの民を、特別に選んで引き上げてくださったのです。エジプトを出た後、イスラエルの民は荒れ野で四十年間を過ごすことになります。この間、神は彼らの行いを耐え忍び、そのうえでカナンの地ですでにそこに住んでいた七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに与えてくださいました。荒れ野で神に反抗し続けるイスラエルの民の行いを耐え忍び、やんちゃな子どもを育む親のように苦労に苦労を重ねて、神はこの民を引き上げてくださったのです。

 こうして神からの恵みを一身に受けて引き上げられたイスラエルの民でしたが、その後彼らはそれぞれ自分が正しいと思うことを自分勝手に行いました。それゆえに他国からの略奪など悲惨が続きました。その度に神は士師を送ってくださいました。一時的に苦しみからは解放されるのですが、またイスラエルの民は神から離れ悲惨を繰り返す。それがこの時代でした。そのようななかで、人々は王を求めました。そこで神は、サウルを王としてお与えになりました。サウルは一代で王から退けられ、神はダビデを王の位につけられました。その後は、ダビデの子孫が王を継いでいき、預言者たちの時代にいたります。このように、旧約聖書後半の歴史の起点となりましたダビデ王もまた、アブラハム・イサク・ヤコブと同じように、ユダヤ教徒にとっては信仰の源泉であり偉人でした。そのダビデについて神は、22節の後半の宣言をなされました。これはダビデ本人だけでなく、彼の子孫から出る救い主についての神の約束です。ここまでは、ユダヤ教の聴衆もうなずきながら聞いていたでありましょう。しかしそれに続く23節が、キリスト教の旧約聖書理解の中心点です。このように旧約聖書をキリストを指し示すものとして理解しているからこそ、キリスト教はこれを神の言葉として受け入れているのです。24節から登場する洗礼者ヨハネもまた、当時のユダヤ教徒にとって信仰の偉人でありました。洗礼者ヨハネこそ約束された救い主だと思う人もいたようです。そのような彼が25節の最後で主イエスについて、自分はその方に比べればまったく値打ちのない者だと証言しています。この事実から見ても、洗礼者ヨハネの後に現れた主イエスこそが、旧約聖書に約束された救い主メシアであるはずだと、パウロは聴衆に示しています。

 

 さて洗礼者ヨハネは、後から来られる救い主に比べれば自分は全く値打ちのない者だと言いました。この発言は単純な自己卑下ではなく、本当に値打ちのある方を示すための言葉です。彼はあたかも自分が救い主であるかのように周りの人々に認められることではなく、救い主である主イエスを指し示す者として生きることに自らの値打ちを置いていたのです。アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデといった旧約聖書の信仰の偉人たちも同じです。彼らもまた主イエスを指し示す者として、歴史のなかで用いられました。ここに彼らが地上で生きた値打ちがあるのです。周りの人々から認められることを自分の値打ちのものさしにしても、それはいつか崩れ去るものです。残念ながら多くの人々が、このものさしで自分の値打ちをはかっているのです。信仰生活においても、兄弟姉妹や牧師から認められることを自らの値打ちとして求めていては虚しいのです。キリスト者として生きるわたしたちの値打ちは、キリストを指し示して生きることです。キリスト者である時点で、わたしたちはもうそのような者とされています。周りの人々は、キリスト者の行動をとおしてキリストを見るからです。もはやわたしたちは生きているだけで、キリストを指し示す存在なのです。キリスト者として生きるわたしたちは、それだけですでにこの上ない値打ちあるものとされているのです。キリストを指し示す値高い人生を、今日ここからまた新たに歩みだしてまいりましょう。