聖書箇所:使徒言行録15章6~21節
御言葉に聞く会議
使徒言行録15章において、教会の会議について学んでいます。この会議の議題は、人を救うのは信仰なのか、それに加えて割礼をはじめとする律法を守ることも必要なのか、ということでした。このことを議論するためにエルサレムで会議が行われた様子が、今日の箇所になります。この会議に参加したのは使徒たちと長老たちでした(6節)。聖書の知識に長けた人々が教会全体を代表して話し合い、その結果に教会全体が従っていく。これが、わたしたちの教会が取っている長老主義の原型となっています。
さて、この会議においても喧々諤々の議論があったようです。そのなかで使徒ペトロが立って、話し始めました。ペトロの言葉は、7~9節において自らの経験に基づいて事実を確認し、10~11節でその事実に基づいて意見を述べる、という構造になっています。ペトロ自身は使徒言行録10章において、割礼を受けていない異邦人に福音を語っています。そこで主イエスを信じた彼らに聖霊が降ったのを目の当たりにしていました。その経験を踏まえて、7~9節の事実関係が語られています。7節を原文の文法から見るならば、神が選ばれたのはペトロという人ではありません。ペトロの口をとおして、割礼を受けていない異邦人が信じることを、神は選ばれたのです。こうして神は、信じた彼らをも受け入れてくださいました。その証明として、神は彼らにも聖霊を与えてくださったのです。ですから、「救い」ということにおいて、割礼を受けているわたしたちと、割礼を受けていない彼ら異邦人との間に、神は何の差別もなさいませんでした。これが9節での結論です。
この事実を踏まえて10節に続いていきます。ここで軛とは、割礼あるいは広く旧約聖書に基づく律法を意図しているでしょう。ただし、律法そのものが軛なのではありません。律法を守ることを救いの条件とすることが軛なのです。そのような軛は、先祖である旧約時代の人々も、またわたしたちも負いきれなかったのです。これまで誰も、律法を守ることによって救われた者はいないのです。では人はどうやって救われてきたのか。主イエスの恵み、すなわち信仰です。そうであるならば、主イエスを信じた異邦人もまた、同じようにその信仰によって救われるのは当然ではないか。これが11節まででペトロが語った言葉です。
すると12節で全会衆は静かになりました。もはや議論が終わったのです。そしてこの会議の結論として、ヤコブが答えます。このヤコブというのは、主イエスの兄弟であるヤコブです。このときのエルサレム教会のリーダーでありました。彼もまた、ペトロと同じように事実確認から始めます(14節)。シメオンとは、ヘブライ語読みのペトロの本名です。神が異邦人の中から御自分の民を選び出されたことは、ペトロの話から明らかです。このことが「預言者たち」すなわち旧約聖書の預言書と一致していると15節で言って、16~18節でアモス書9:11~12から御言葉を引用します。そして「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」と結論づけます。これが会議の結論となりまして、異邦人に割礼の義務は課さないということになりました。それが教会全体の方針となったのです。
救いに関わる大きな問題が、教会の会議によって解決を見ました。最終的に会議の結論を導く決め手となったのは、15節にありますように、起こった事実が聖書の御言葉と一致している、ということでした。しかしペトロの語った異邦人の救いと、ヤコブが16~18節で引用しているアモス書の御言葉は、内容的にぴったり一致しているのでしょうか。実はその間には、若干の飛躍があるのです。もともとアモス書の言葉は、旧約時代に神の民イスラエルの王国がまだ存続している時のものです。そのとき神から離れてしまっていた民に対して、いずれ神がこの王国を滅ぼされ、その後、神が御心にかなう形で建て直されるのだと預言したのが、アモス書全体の大まかな内容です。そのなかで、王国の建て直しについての部分を、ヤコブが引用したわけです。ですからアモス書全体を踏まえたこの箇所の一般的な理解は、「かつてのダビデの王国が再建され、異邦人もそれに預かる」といった具合のものだったでしょう。しかしこのとき教会に起こっていることは、それ以上のことです。主イエスキリストの福音が告げ知らされ、各地に教会が建てられています。こうして、かつての人間的な王国ではなく神の国が建てられています。そこに異邦人たちが、新たな神の民として起こされているのです。
ですからヤコブが今日の15節で「預言者たちの言ったことも、これと一致しています」と語ったとき、目の前で起こっていることを「聖書と一致しますね」「聖書的ですね」と裁判官のように判断するような発言ではなかったはずです。聖書の御言葉が自分たちの理解を超えるかたちで実現しているという驚きの言葉が、15節の「これと一致しています」なのです。御言葉の実現によるこの生き生きとした感動によって、教会は至るべき結論を見出していったのです。
わたしたちの教会も、わたしたち一人一人の信仰生活も、このような感動をとおして導かれてまいりたいのです。聖書が記されたのは何千年も前です。けれどもその言葉は、今のわたしたちの歩みのなかで実現し続けているのです。それはここにいるお一人お一人が、これまでの歩みを振り返っていただければ分かるのではないでしょうか。確かに、自分の身に神の御言葉が実現した。そう思える経験が、誰しもあるでしょう。こうして御言葉は、生きた言葉としてわたしたちを導くのです。このような生き生きとした御言葉にわたしたちも、導かれてまいりましょう。この礼拝においても生ける御言葉に与って、それぞれの場所へと遣わされていこうではありませんか。