聖書箇所:ヨハネによる福音書1章14~18節
恵みと真理の到来
コロナがあろうとなかろうと、クリスマスは毎年この時期にやってきます。しかし多くの人々は、この時期が過ぎれば元の生活に戻っていきます。クリスマスに起こったことの重大さからすればそのようなことはあり得ません。 良い悪いは別にして、重大な出来事が起これば、わたしたちの生活は大きく変化します。東日本大震災や原発事故がそうでしたし、今年はコロナのために新しい生活様式が呼びかけられています。このように重大な出来事は、わたしたちの生き方を変えます。クリスマスもまた、その重大さを知るならばわたしたちの生き方は変えられます(もちろん、良い意味で)。
クリスマスの重大さは、何よりも聖書によって示されます。そして聖書自身にとりましても、クリスマスは大きな出来事です。聖書は、旧約聖書と新約聖書に大きく分かれています。その区切りがクリスマスです。それが今日の箇所では「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と表現されています。クリスマスにお生まれになった主イエスが「言」と言われている点が特徴的です。この「言」とは、神の御言葉、特に旧約聖書にある神の約束の言葉が意識されています。ではクリスマス前の旧約聖書において、どのような約束の言葉が神から示されていたのでしょうか。あえて一言で言うならば「どのような状況にあっても、わたしは必ずあなたを救う」という恵みの約束でした。14節と17節で言われている「恵み」とは、この恵みの約束と結びついています。そして恵みと共に登場する「真理」とは、神の約束の言葉が真理であるということです。分かりやすく言うならば、この約束を神が必ず実現してくださるということです。仮に恵みの約束が与えられても、それが実現しなければ絵に描いた餅に過ぎません。しかし神の言葉が真理であるならば、どれほど厳しい状況にあったとしても神は必ずそれを実現してくださるのです。恵みと真理とで、神の恵みの約束の実現を指しています。まさにそれが、主イエスの誕生したクリスマスに起こったのです。
ところでクリスマス前の旧約聖書の時代の人々は、恵みの約束の実現をまだ見ていませんでした。それでも神がこの約束を実現してくださるのを信じ、待ち望んでいました。それは彼らが信仰的だったからではなく、この神の約束に望みを置かざるを得ないほど厳しい状況に置かれていたからです。旧約聖書にも、たくさんの偉人や信仰者が登場いたします。しかし彼らが努力しても、様々な欠けや弱さがあらわになります。一生懸命神に従っていても、破滅が襲ってくるのです。そこで示されるのは、人の空しさ、空っぽさです。一時的に繁栄することはありますが、ずっと続くことはありません。最後には何もかも手放さなければならない時がきます。わたしたちの歩みも同じではないでしょうか。身に着けた能力、努力して得た他者への影響力は、いつか手放さなければなりません。最後に残るのは、空っぽな自分です。旧約聖書の時代の人々がまさにそうでした。だからこそ「わたしは必ずあなたを救う」という神の恵みの約束に、最後の望みを置いたのです。そしてついに、この約束の実現であるクリスマスへと至るのです。
ところで15節で、ヨハネという人が登場します。洗礼者ヨハネと呼ばれる人で、主イエスより少し前に生まれました。この人は、旧約聖書の時代の最後の人であり代表者です。この人が、主イエスについて15節で証ししています。わたしの後、すなわち旧約聖書の時代の後に来られる方は、空っぽなわたしよりも優れている。その理由は「わたしよりも先におられたからである」というものでした。地上での生まれで言うならば、ヨハネのほうが主イエスよりも先に生まれました。しかし主イエスは神として、旧約聖書の時代においても存在しておられました。この時代に「わたしはあなたを必ず救う」という神の約束の言葉が与えられてきたのであり、この約束の実現としてこの方は来られたのです。
この神の約束の言葉の実現としてお生まれになった主イエスキリストは、空っぽなわたしたちを恵みで満たしてくださいます(16節)。どのようにしてわたしたちを満たしてくださったのか。十字架上で死に、自らが空っぽになることによってです。このために神は、ふところにおられる独り子である神、主イエスキリストをお送りくださったのです。神は、御自身の大切な独り子を犠牲になさるほどの価値を、空っぽなわたしたちに見出してくださったのです。わたしたちが神のために何かのお役に立てるわけではありません。そんな能力も従順さも、わたしたちの内にはありません。それでも神は、わたしたちを能力ではなく存在の故に愛してくださったのです。
わたしたちは、人の価値を「何ができるか」という能力で測りがちです。このものさして自らを測るならば、いずれ自分の価値がなくなり、空っぽになります。すでに今、自分に価値を見出せす、自らの空っぽさに苦しんでいらっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。しかしクリスマスに与えられたキリストをとおして神の愛に触れるとき、この認識は大きく変わります。神は、独り子をお与えくださったほどにこの空っぽなわたしを愛し、わたしという存在に大きな価値を見出してくださっています。このことを、わたしたちはクリスマスにお生まれになった救い主をとおして示されるのです。この神の愛のまなざしから見るとき、わたしたちは決して空っぽではありません。空しくなんかありません。大いなる価値を持っているのです。このことを知るとき、わたしたちの生き方は変わります。自らの空っぽさにおびえる生き方から、神に愛され満たされた者としての生き方へと変えられるのです。このような新しい生活様式が、恵みと真理の到来したこのクリスマスから始まるのです。