2020年12月27日礼拝説教「逃れる道は神の真実」

 

聖書箇所:コリントの信徒への手紙一10章1~13節

逃れる道は神の真実

 

 この困難な年の最後に聞くべき御言葉として、一コリント10章を選びました。特に最後の13節は、多くの方々に慰めを与える御言葉です。しかし1節からの流れで見ますと、13節の本来の意図は、慰めというよりもむしろ警告に近いのです。世に妥協して生きるな、という警告です。一年の最後にこの御言葉から自らの信仰を省みたいと願っています。

 この手紙を書いたパウロは「わたしたちの先祖」について記しています。出エジプトを果たしたイスラエルの民のことです。出エジプトの過程で彼らは海の中をとおり(洗礼)、霊的な食べ物飲み物(聖餐)によって命をつなぎました。彼らもまた、わたしたちと同じく洗礼と聖餐の礼典を受けたのです。「この岩こそキリストだったのです」(4節)と言われています。岩は、主なる神を指す言葉として用いられます(申命記32:4)。かつてのイスラエルの民が岩なる神によって命を支えられたように、洗礼と聖餐に与るわたしたちもまた神なるキリストによって命が支えられているのです。

 このように教会に集う人々と、かつてのイスラエルの民とのつながりが明らかにされました。続く5~6節では警告の言葉が書かれます。その時代の洗礼と聖餐に与っていたはずのイスラエルの民の大部分は、神の御心にかなわず荒れ野で滅ぼされてしまいました。同じように、教会に通い、洗礼と聖餐に与っていれば、エスカレーターのように自動的に救いに至るわけではないのです。今日の御言葉はコリントの信徒への手紙です。コリントは、異教宗教が大変盛んな土地で、生活の中に異教的な風習が色濃く入り込んでいました。今のわたしたちの状況に大変近いのです。その中で、教会の一部の人々が異教的な風習に妥協し始めました。いわば信仰と生活の分離です。教会にいるときには洗礼と聖餐に与り信仰的に過ごす。しかし教会から一歩外に出れば、異教徒の人々と同じように生活する。それでいいじゃないか。神は恵み深いお方だから、それでも赦してくださる。これがコリント教会の一部の人々の姿でした。それでよいのか。それがこの手紙の問いかけです。わたしたちと同じように洗礼と聖餐に与っていたかつてのイスラエルの民の大部分は、神の御心に適わず滅ぼされてしまいました。教会に通って洗礼と聖餐に与っていれば、万事大丈夫ではないのです。その、具体例が7〜10節にかけて4つ挙げられています。

 1つ目は7節の偶像礼拝(出エジプト記32章)です。2つ目は8節のみだらなこと(民数記25章)です。道徳的な欠けも、結局は偶像礼拝へとつながります。3つ目は9節のキリストを試みること(民数記21:4以下)です。神の赦しを見越して、あえて罪を犯して神の恵みをさらに引き出そうとする甘えの心です。最後4つ目は10節の不平を言うことです。

 これらの行動に加わったかつての人々は、我々と同じく洗礼と聖餐に与っていながらも荒れ野で滅ぼされました。このことが書かれたのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためです(11節)。時の終わり、それは世の完成の時であると共に神の裁きのときです。救いの恵みをいただきながら世と妥協する生き方で、神の裁きを迎えてよいのでしょうか。立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい、とパウロは警告しています。立っていると思う者というのは、世と妥協する今の自分の生活のままで、神の裁きをやり過ごせると思っている者です。そうゆう者こそ、倒れないように自分の生活を見直すべきです。

 この警告の根拠として、多くの人々の親しまれている13節が語られていくのです。もうお分かりかと思いますが、この言葉は今のままで大丈夫という安易な慰めの言葉ではありません。神が耐えられない試練にあわせられないのですから、試練が厳しすぎると不平を言って世と妥協して生きるならば自らが責任を問われるのです。そもそも、なぜ世との妥協が起こるのでしょうか。決して我慢強さの問題、信仰のあついうすいの問題ではありません。注目すべきは、13節の「神は真実な方です」という言葉です。世との妥協が起こる原因は、神が真実な方であると心から信じることができないからです。「わたしたは必ずあなたを救う」。これが、神の約束です(前週の説教参照)。真実な神は、その約束を必ず実現してくださいます。これを信じられないために、不安に陥って世との妥協が始まります。神の救いは大事だが、世の中とも妥協してうまく生きていかなければ救われないじゃないか、と。

 わたしたちが世と妥協しようとするときも同じです。ここでわたしたちがすべきことは、本当の意味でわたしの命を支えてくださっている方である神に目を向けることです。この方は、キリストの十字架によってわたしたちの命を救ってくださったお方です。そして、救われた命を決して見捨てることがない方です。だからこそ神は、わたしたちを耐えられない試練に遭わせることなく、逃れの道をも備えてくださるのです。ここにこそ、わたしたちの本当の安心があるのです。

 

 今日の説教は厳しい内容かもしれません。けれども、自分も滅んでしまうのではないかと不安になっていただきたくはありません。逆です。キリストの十字架の故に、このわたしは確かに救われているのです。真実な神は最後まで、このわたしを救いぬいてくださいます。妥協することなく徹底的に、この確信と安心に立っていただきたいのです。天変地異とも言える今年のような状況のなかで、あなたは何に安心を得ようとしているでしょうか。聖書に示された真の神だけは、どのような状況にあっても必ずわたしたちを見捨てることはありません。この真実な神に全幅の信頼を置いて、新しい年を歩みだしていこうではありませんか。