2021年1月31日礼拝説教「苦難の先の希望を見つめる」

 

聖書箇所:ローマの信徒への手紙5章1~11節

苦難の先の希望を見つめる

 

 本日は午後の定期会員総会に備えて、年間標語の御言葉に耳を傾けてまいります。ご存知のとおり、いまは非常時です。それまでわたしたちが立っていた土台が大きく揺らいでいます。このような苦難が襲うたびに、わたしたちは揺らぎます。しかし聖書は、信仰者として受ける苦難の先には希望があると教えます(3〜5節)。では、わたしたちが持つべき希望とは何でしょうか。それを今日は教えられたいと願っています。

 直前の4章までで語られているのは、「人が神の御前に義と認められる根拠はなにか」です。「義と認められる」というのは、救われること、あるいは神から愛されていることと読み替えてもよいでしょう。主を信じるわたしたちもまた、この恵みに与っています。これはわたしたち人の側の行いによって勝ち取ったものではなく、信仰によって恵みとして与えられたものである。これが4章までに主張されていることです。それにどのような意味があるかが、5章から明らかにされていきます。まず挙げられているのは、主イエス・キリストによって神との間に平和を得ているということです(1節)。もし人の行いが自らの救いを左右するとしたら、わたしたちは神の顔色を見ながら必死に良いことをし続けなければなりません。これは決して平和ではありません。しかしわたしたちは、信仰によって救われています。それが、わたしたちの行いに左右されることはありません。だからこそ、神との間に平和を得ることができるのです。また、救いは自らの行いによるものではありませんから、ただ神の栄光にあずかる希望を誇るのです(2節)。その上で、わたしたちは苦難をも誇りとすると、3節から語られていきます。信仰者は苦難に対して全く動じなくなる、ということではありません。わたしたちを襲う苦難は、そんな生易しいものではないでしょう。わたしたちの受ける苦難はわたしたちの存在を根本から揺さぶり、土台を揺るがすのです。それでもなお苦難を誇るのは、それが希望につながると知っているからです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むのです。このように生じた希望はわたしたちを欺くことはないのです。

 ところで、忍耐と希望をつなぐ「練達」とは一体なんでしょうか。もともとこの言葉は、試験を経て実証されている、あるいは定評があるという意味です。それが、ある洗練された姿をも意味するようになり、ここでは「練達」という言葉に訳されています。新しい訳の聖書では、練られた品格(新改訳2017)や品性(協会共同訳)と訳されています。いずれの言葉でも、苦難と忍耐を経て信仰が練り清められ、整えられていく意味合いが込められた訳でしょう。ではこの箇所の強調点は、苦難と忍耐によるわたしたちの側の信仰的な成長や成熟が、希望を生むということなのでしょうか。4章までの話の流れから見ると、そうではないのです。宗教改革者カルヴァンがこの箇所の解説を書いています。そのなかで「練達」という言葉は「証明」と訳されています。この言葉のもともとの意味に則した訳です。では苦難を忍耐することによって与えられる証明とは何でしょうか。つねにその民を支えるとの神の約束が確かであるという証明です。この手紙を書いたパウロ自身も、このことを経験しています(二コリント4:8~9)。どのような状況に陥っても、神はわたしを守り、愛し続けてくださる。このことが証明されることによって、「今後も神はわたしを変わることなく愛し続けてくださる」という希望を生むのです。この希望はわたしたちを欺くことはありません。神は、一度御自身の守りの内に置いた人を、途中で投げ出すことはないからです。神に守られているならば、神に愛されているということでもあります。

 この神の愛の具体的な内容が6節から記されます。それはわたしたちがまだ弱かったころに、キリストが不信心な者のために死んでくださったことによって注がれた愛です。不信心は、無価値という意味でもあります。無価値な者のために命を捨てる。それが、信仰者に注がれている神の愛です。人の愛は、「善い人のために命を惜しまない者もいる」程度のものです(7節)。無価値だと思う人のために命を捨てるのは、あり得ないことです。それがわたしたちへの神の愛なのです。ところで6節の冒頭にあります、「わたしたちがまだ弱かったころ」という言葉が、8節では「わたしたちがまだ罪人であったとき」、10節では「敵であったときでさえ」と言い換えられています。実は無価値どころの話ではないのです。わたしたちは罪人であり、神の価値を損なうような存在でした。しかも神の敵として、積極的に神に反抗するものでした。そのようなわたしたちのためにキリストは死んでくださったのであり、わたしたちは神と和解させていただいたのです。この驚くべき神の愛がわたしたちに注がれています。ですからわたしたちの行いによって、神の愛が増減することはあり得ないのです。敵であった時ですら、神はわたしたちを愛してくださったからです。

 この事実がありますから、苦難の中にあってもわたしたちの希望が失われることはないのです。そのような状況の中でも、決して変わらぬ神の愛がわたしたちに注がれ続けています。わたしたち人間は弱いですから、苦難に揺らぐことはあるでしょう。揺らいでもいいのです。しかし神の愛は、決して揺らぐことはありません。敵であったときでさえ注いでくださった愛を、神は今も変わらず注ぎ続けてくださっています。わたしたち自身が揺らいでも、そして教会が揺らいでいるように見えても、わたしたちへの神の愛は決して揺らぐことはありません。この確信こそが、苦難と忍耐が生む「練達」です。この練達から、揺るぎない希望が生まれるのです。この希望の上に建てられて、この一年を歩んでいこうではありませんか。