聖書箇所:使徒言行録16章25~34節
家族までもが救われる
パウロは、女奴隷に取りついていた占いの霊を主イエスの名によって追い出しました。それは彼女の占いによって金儲けをしていた主人たちにとっては、都合の悪いことでした。そのため彼らによってパウロとシラスは捕らえられました。二人は鞭打たれて牢に入れられました。こうして投獄されたパウロとシラスの牢で話が、今日のお話です。
二人は真夜中ごろ、賛美の歌をうたって神に祈っていました。彼らは牢の中で神を礼拝していたのです。そして周囲にいた囚人たちは、それに聞き入っていました。先生の教えを一生懸命聞くという意味の言葉です。彼らもまた、パウロとシラスの礼拝に加わっていたのです。この夜この牢獄に、神を礼拝する小さな教会ができあがったわけです。そのような中で、突然大地震が起こります。聖書において、地震は神がご臨在されることのしるしの一つです(イザヤ29:6、エゼキエル38:19など)。大地震によって神の御業がなされました。その結果、牢の土台が揺れ動き、戸はすべて開いて鎖も外れてしまいました。もはや牢は機能しなくなりました。
ここで牢と共に大きく揺り動かされたのは、囚人たちを見張っていた看守でした。地震の後に目を覚ました看守は、牢の扉が開いているのを見ました。囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとしました。囚人が逃げてしまった場合、その囚人が受けるはずであった罰を看守が代わりに負うのが、この時代の常識だったからです。パウロは大声で叫びました。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる」。「皆」が指すのはパウロとシラスだけではなく、そこにいた囚人たち全員を指していたはずです。大地震によって牢の戸が開きながらも、誰も逃げませんでした。 囚人たちは、そこから逃げれば自らが受けるはずだった罰を免れたはずです。それでも彼らが逃げなかった理由として考えられることは一つです。看守の命を救うためです。
28節の「大声で叫ぶ」という動詞は、呼び寄せるという意味でもあります。主イエスが、弟子たちや人々を御自身のところへ呼び寄せられるときに用いられる言葉です。ですからパウロは、今まさに絶望の中で自ら命を断とうとしている看守を招いているのです。パウロと共に神を礼拝していた囚人たちもまた、同じ気持ちだったはずです。彼らは皆、自らが自由になるチャンスを手放してまで、そこに留まったのですから。ですから「わたしたちは皆ここにいる」とは、神を礼拝する教会の招きの言葉です。この状況を目の当たりにし、看守はパウロとシラスの前に震えながらひれ伏しました。そして二人を外に連れ出し、救われるためにはどうすべきか問いました(30節)。先生方という呼びかけは、本来「主人たちよ」あるいは「主よ」という意味です。この問いから、この看守がどのような考え方の中で生きてきたかが分かります。立派な人を主人とし、また神とする生き方です。同時に、何かをしなければ救われないという生き方です。この生き方の前提にあるのは、「何もできない役立たずは死ぬべき」という理解です。今の日本にも、いや世界中に、同じ前提理解があるのではないでしょうか。看守も、この前提理解のなかで生きていました。だからこそ、囚人が逃げたとわかったとき自殺しようとしたのです。囚人を逃がしたの自分は、看守としては役立たずであり、生きる価値がないからです。そんな看守に、パウロとシラスは主イエスを信じれば、家族までも救われると答えます(31節)。そして彼らは、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語りました。この主の言葉を聞いた皆が、主イエスを信じて洗礼を受けました。こうして、何かをしなければ救われず役立たずは死なねばならない生き方から、主イエスの十字架に生かされる生き方へと変えられたのです。それが、この家族に実現した救いです。
最終的に看守と家族を救ったのは、大地震のなかでも囚人が誰も逃げなかったという奇跡ではありません。主の言葉を聞くことをとおして主イエスを信じる信仰です。ですから31節の言葉は、ある人が救われたのなら自動的にその家族も救われると言おうとしているのではありません。看守が主イエスを信じるために一歩を踏み出すことで、家族もまた彼といっしょに御言葉に聞くことになるのです。こうして家族も救われるに至ったのです。それが、34節で主を信じる者になったことを喜ぶことにつながります。この喜びが祝われたのは、食事の席でした。おそらくここで聖餐式が行われていたと思われます。わたしたちの教会でも、定期的な聖餐式を再開します。そこでわたしたちは、主を信じる者になったことをともどもに喜ぶのです。喜びつつ、まだ救いに与っていない家族のことを、親しい方々のことを覚えたいのです。
このような人々が救われていく過程が、今日の御言葉に示されています。それは大地震という神の御業から始まりました。しかし神の御業だけで救われたのではありません。そこには、パウロとシラスを中心とした小さな教会がありました。必死になって失われつつある命を守ろうとする教会でした。 この教会の姿を見ることをとおして看守は神の御前に立たされ、家族ともども神の言葉を聞くことになりました。そして、彼らは神を信じる者とされました。こうして、「役立たずは死んで当然」という生き方から救われたのです。現代もまた「役立たずは死んで当然」という前提理解のなかで、失われつつある命があります。だからこそわたしたちの教会もまた、今日の牢獄に建てあげられた教会の姿でありたいのです。そのためには何が必要でしょうか。パウロとシラスがしていた、神を賛美し、神に祈る礼拝をおいてほかにありません。わたしたちが心からささげる礼拝から、家族までも救われる神の救いの御業は実現していくのです。