聖書箇所:使徒言行録17章22~34節
神は遠く離れてはおられない
アテネにおける使途パウロの宣教について、先週に続く個所を見てまいります。エピクロス派とストア派の哲学者によってアレオパゴスに連れてこられたパウロが語った説教が今日の個所です。わたしも毎週ここで説教をしています。説教するうえで必ずしなければならないことの一つが、聴衆を思いめぐらすことです。この箇所におけるパウロの説教の聴衆は、聖書の知識がない、あるいは聖書を知っていたとしても神の言葉として受け入れていない人々です。しかもエピクロス派とストア派の哲学者たちという、インテリ層です。そんな彼らの理解に寄り添いながら、真の神を示していくところに、今日のパウロの説教の特徴があります。
まずは、この説教を語る動機が語られます(22,23節)。アテネにいるのが信仰のあつい人々だと、パウロは話し始めます。この信仰は、あくまでも
異教の信仰です。しかし「知られざる神」という祭壇があるほどに、アテネの人々は自分を超えた神という存在を重んじ、何かを拝むということに対して熱心だったと言えます。これは哲学者たちインテリ層の人々も例外ではありません。この当時の哲学は、神を認めつつ人間の生き方を考える学であり、宗教と明確には区別されません。哲学者たちを含め、知られざる神にすら信仰心を向ける聴衆に対して、真の神、本当に拝むべき神をこのわたしが知らせましょう。これが、パウロの説教の動機です。
その直後、すぐに結論が示されています(24,25節)。この内容は、旧約聖書の神理解に基づいています。創世記の初めに記されているとおり、神は天地万物をお創りになったお方です。旧約聖書における神殿は神のお住まいではなく、神の民が神を礼拝するために備えられた場所に過ぎません。そこで捧げる礼拝や動物の犠牲も、神がそれを必要としているから行ったのではありません。反対に神が、すべての人に命と息と、その他すべてのもの与えてくださるお方です。では旧約聖書に基づくこの内容が、聴衆たちにとってはどのように受け止められたのでしょうか。アテネにはいくつかの神殿が建てられており、そこで神に仕えることがなされていたようです。パウロの説教の内容は、そのようなアテネの町の人々の行動に対する批判と見ることもできます。けれども聴衆のなかでも特にエピクロス派の人々にとって、ここまでの内容は実は受け入れやすい内容だったと考えられます。なぜなら彼らは、神がこの世界には関りをもたないほど超越した存在であると理解していたからです。エピクロス派の人々にとって受け入れやすい内容で、旧約聖書の神が提示されています。この点、パウロがこの説教を聴衆たちに聞かせる工夫がなされていると言えるでしょう。しかし続く26,27節においては、エピクロス派の理解への反論が語られていきます。神はこの世界に深くかかわるお方です。探し求めさえすれば見出すことができるほどに、この世界のあらゆることを通してご自身を表してくださっているのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。その根拠としてパウロが挙げるのは、聴衆たちも理解し受け入れている詩人の言葉でした(28節)。ここで詩人が言及している神とは、ギリシャ神話の最高神であるゼウス神のことです。それでもアテネの人々が、近くにおられる存在として神を理解していることに変わりはありません。それどころか、彼らは自分たちを神の子孫だと理解していたのです。であるならば、金や銀や石で造った像を知られざる神として拝んで、それで満足してはいけないでしょう。親である神が知られざる存在となっているならば、迷子の子供が親を探し求めるように、必死に神を求めることが当然でしょう。
そして、30節以降の結論に入ってまいります。神は、そのような無知な人々の態度を、これまでは大目に見てくださいました。しかし今は、どこにいる人でも悔い改めるようにと、神は命じておられます。それは先にお選びになった一人の方、主イエスキリストが世に来られたからです。神はこのキリストを通して、世を正しくお裁きになる日をお決めになりました。その印としてこのお方を死者の中から復活させられました。キリストの死と復活という確証が与えられている以上、今や神を知らないまま求めないという態度を続けることは許されないのです。
この説教を聞いた人々の反応は、決して芳しくありませんでした。それは、パウロが死者の復活を語ったからです。肉体を低く見るギリシャ哲学から見て、肉体の復活はとても受け入れられるものではありません。それゆえ多くの人々は神を求めることをしませんでした。しかし一部の人々はパウロについていき、信仰に入りました。パウロの説教を聞いて神を求めた人々は、確かに真の神を見出したのです。大切なことは、自らに必要な方、拝むべき方として、主イエスキリストを復活させられた神を求めるか否かです。このお方は、聖書をとおしてわたしたちにも御自身を現わしておられます。それゆえ「聖書は難しく、聖書の要約である教理も難しいから分からないままでいい」では済まされないのです。大切なことは知識の量ではなく、真の神を求め続けることです。わたしたちの歩みにおいて、時に神が分からなくなるときがあるのだと思うのです。熱心な信仰者や教会の歩みにおいて、大きな試練が起こるのです。それをなさる神の御心が、わたしたちには分かりません。分からないからこそ聖書や教理を学ぶことをとおして、主イエスをお送りくださったほどに世を愛された神を求め続けたいのです。神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。神はわたしたちと共にいてくださる神です。それが聖書の約束です。この約束をお与えくださった神に信頼をして、聖書の御言葉に示された神を求め続けてまいりましょう。