2021年6月6日礼拝説教「他者に心を留めない社会の中で」

 

聖書箇所:使徒言行録18章9~17節

他者に心を留めない社会の中で

 

 18:1~11を見ますと、コリントの町での宣教は実りの多いものであったことが分かります。パウロはこの町で、アキラとプリスキラという大変協力的なクリスチャン夫婦に出会うことができました。フィリピ教会からの思いがけない援助がありました。そして会堂長クリスポをはじめ多くの人々が主を信じるようになりました。そして、励ましに満ちた言葉が幻の中で主から語られます(9,10節)。この言葉に後押しされる形で、パウロは一年半にわたってこの町に留まり、神の言葉を教え続けました。それに続く12節からのお話において、9~10節の「あなたを襲って危害を加える者はいない」という主の言葉が実現します。パウロは法廷に引いて行かれながらも、危害を加えられることはありませんでした。主はお言葉通りパウロをお守りくださいました。ではどのような形で主の言葉が実現したのでしょうか。それが、今日共に見たいと願っている点です。

 地方総督ガリオンは、哲学者セネカの兄にあたる人です。ガリオンという人の養子になり、自身もガリオンを名乗りました。そしてアカイア州の地方総督を務めることになります。養子になった後にこの地位に就いたことを考えますと、彼の世渡り上手な面を見ることができます。このガリオンがアカイア州の地方総督であったとき、ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行きました。裁判官である地方総督ガリオンに、ユダヤ人たちが訴えた言葉が13節です。ここでユダヤ人たちが問題にしているのは、パウロが律法に違反するような仕方での神礼拝を推し進めていることです。ですから13節で言われている「律法」とは、ローマの法律ではなく旧約聖書の律法と考えるのが自然です。ローマ帝国において保護されているユダヤ教から、パウロの教えは外れている。だから取り締まるべきだ。ユダヤ人たちの主張はそのようなものだったのかもしれません。

 この訴えに対してパウロが反論しようとしたときに、それを遮るようにしてガリオンがユダヤ人たちに話し始めます(14,15節)。ガリオンは、ここで問題になっているのはあくまでもユダヤ教内部の宗教問題だ、という立場を貫きます。そのような内部の問題については、自分たちで解決せよ。わたしはそんなことの審判者になるつもりはない。こう突っぱねました。審判者になるつもりはない。直訳すると、審判者になりたくない、です。こうしてガリオンは、彼らを法廷から追い出しました。結局パウロに対して危害が加えられることはありませんでした。

 すると群衆は会堂長ソステネを捕まえて、法廷の前で殴りつけました。けれどもガリオンは、それをもあくまで宗教問題であるとし、これらのことについてまったく心を留めることはありませんでした。この「心を留めなかった」という言葉は、ヨハネ10: 13にも用いられています。

「彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。」

これがガリオンの一環した姿です。すなわち無関心です。彼は、自分に手間が及ぶような面倒ごとにはできる限り関わりたくないのです。早く法廷を閉じようとした14節や、そんなことの審判者になるつもりはないという発言した15節にも、ガリオンのこの姿勢がよく現れています。「君子危うきに近寄らず」を絵にかいたような態度です。このような危ういこと、面倒な人々からは距離を置き、無関心を貫くことができること。これが世の中をうまく渡り歩き、出世するための一つの能力なのかもしれません。さらに言うならば、社会が無関心であることを要請し、それを事実上推奨している面があるのではないでしょうか。そのような社会の中で、わたしたち自身もまた無関心になっていないでしょうか。しかしガリオンの無関心をとおして、結果的にパウロに対する主の言葉が実現することになりました。神は、自らの民にとことん関わってくださるお方です。それがキリストをとおして示されています。ヨハネ10:11で主イエスはこのように言われています。

「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」

羊のために命を捨てるほど、羊に深く関わらられる神。それが私たちを救われる神であり、我らの救い主、主イエスキリストです。そしてこのお言葉通り、主イエスはわたしたちを救うために十字架におかかりくださいました。キリストの十字架は、神がわたしたちに深く関心を持ち、今なおわたしたちと共にいて関わり続けてくださっていることの証しです。 

 

 無関心であることや、面倒ごとには関わらないことが推奨されるような世の中にあって、神はわたしたちにとことん関わってくださるお方です。罪の中で苦しみあえぐわたしたちに対して、決して無関心を決め込むことはありませんでした。わたしたちの重荷を担うために、十字架において深く関わってくださるお方です。神がこのようなお方だからこそ、わたしたちは救われたのです。このように、神に関わっていただいて救われたわたしたちもまた、世の無関心を打ち破る存在でありたいのです。痛みの中にある人々に心を向けてまいりたいのです。重荷を負う人々の重荷のそばに寄り添い、その重荷の一部でもあえて負う者でありたいのです。この生き方は、世の中的に見れば賢い生き方ではありません。君子が危うきに近づかないのならば、主イエスの十字架に救われた者が君子になることはできません。しかしそのような君子ではない生き方にこそ、主イエスの十字架の愛は示されていくのです。この賢くない道にこそ、罪人を救う神の知恵は示されるのです。この神の愛、この神の知恵を示す者として、この一週間も歩みだしていこうではありませんか。そのように歩みだす皆様お一人お一人のこの一週間の歩みに、天地を創造された神が深く関わり続けてくださいます。