2021年6月27日礼拝説教「正しい者のために全員赦す神」

 

 

聖書箇所:創世記18章16~33節

正しい者のために全員赦す神

 

 ソドムとゴモラの裁きを巡って、主なる神とアブラハムが駆け引きをするというお話です。ソドムとゴモラは、聖書のなかでも悪名高い罪深い町として登場します。そのような町を、主はいよいよ滅ぼそうとしておられます。そのことを知ったアブラハムは、一生懸命執り成しをします。このやり取りをとおして、神がどのようなお方であるかが示されていきます。

 今日のお話は15節までのお話の続きとして描かれています。直前の箇所は、アブラハムが三人の人をもてなすお話でした。この三人の人が主なる神の現れでありました。彼らを丁重にもてなしたアブラハムに対して、アブラハムとサラから子供が生まれることが改めて約束されました。それは同時に、アブラハムと彼の子孫によって世界中の民が祝福に入るという神の救いの御業の実現の約束でもあります。アブラハムは、神の御業のための器として選ばれています(18,19節)。このアブラハムに対して主は、御自身のご計画を明かそうとされます(17節)。そして20~21節において、主がこれからしようとしておられることが具体的に明らかにされるわけです。20節の最初の文は、新しい教会共同訳ではこのような訳になっています。

「ソドムとゴモラの叫びは実に大きく、その罪は極めて重い。」

口語訳も新改訳も、同じように訳しています。つまりここでの叫びは、ソドムとゴモラ自身の叫びです。神から離れて歩むソドムとゴモラ自身が、苦しみ叫んでいるのです。この二つの町が示しているのは、神から離れて歩み、それゆえに苦しみあえいで叫びをあげる罪人の姿です。主なる神は、それが本当か見て確かめにいくところです。本当であるならば、神はその町を滅ぼされるのです(19章)。神から離れた罪人を正しく裁かれる。これが正義を行われる神の姿です。22節でいよいよ、神御自身でもある人々がソドムの方に向かっていきます。しかしなおアブラハムは、主の御前にいました。

 ここからアブラハムの執り成しが始まります。まずは、23節から25節です。特に25節ではアブラハムが、全能の神に対して「あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです」と大胆に語っています。このアブラハムの大胆な発言に対して神は、決してお怒りになりませんでした。むしろその声を聞かれるのです。ソドムの町に正しい人が50人いるならば、その者たちのために町全部を赦そうとお応えになられました。続けてアブラハムは、正しい者の人数を減らしていきます。45人、40人、30人、20人、そして10人まで減らします。主が「その10人のためにわたしは滅ぼさない」と言われますと、このやり取りは終わります。主は去って行かれ、アブラハムも自分の住まいに帰ります。正しい人が9人より少なかったらどうなるでしょうか。話の流れから明らかです。主の御前に正しい者が1人でもいるならば、主は町全体を赦されるのです。そしてまさにその1人こそ、アブラハムの子孫としてお生まれになる主イエスキリストを指し示すのです。それならば、罪を見過ごさず厳格に裁かれる神はどこに行ってしまわれたのでしょうか。それは「正しい者のために、町全体を赦そう」と言われた神の言葉が、どのように実現したかを見れば分かります。それはキリストの十字架上での言葉に現れています(ルカ23:34)。神の御前に正しい者が、周囲の人々の罪を背負い、痛みと叫びを担うことによって、全員が赦されるのです。これが主なる神の、罪の赦し方です。そしてこれが、聖書の示す神の正義なのです。神の正義は神の愛と同義です。このような神の正義と愛が、今日のお話から明らかにされるのです。

 そのうえで、今日のお話においてもう一つのことをお話しておきます。なぜ神は、自らが行おうとしていることをアブラハムに明かされたのでしょうか。アブラハムに執り成しをさせるためです。22節に「アブラハムはなお、主の御前にいた」とありますが、もともとこの部分は「主はなお、アブラハムの前にいた」という文であったことが分かっています。全能の神なる主が、僕の立場になってアブラハムの言葉を待っておられるのです。ここにこそ、このお話から明らかにされる神のお姿の中心があります。神は、選びの民の執り成しを待っておられるのです。神の民がなす執り成しに聞き従う形で、正しい者による罪の赦しという救いの御業をなすことを望んでおられるのです。主イエスもまた十字架を前にして、ゲッセマネにおいて必死に執り成しの祈りを祈られました。それに応える形で、十字架と復活の御業がなされたのです。この御業の故に、神の御前に悪い者であるはずのわたしたちが救われたのです。こうして救われたわたしたちは、神の御前に義とされ神の民とされました。そして神は今、わたしたちの執り成しを待っておられるのです。わたしたちの周りには、いまだ神から離れて苦しみあえぎ、叫びをあげている人々がおります。わたしたち自身も、様々な苦しみや重荷にあえいでいます。この状況のなかで、それらの痛みに無関心となり、黙ってじっと耐えることを神は望んではおられません。「神よ、なぜですか」「このような苦しみは、聖なるあなたの御業に相応しくないのではないですか」と叫びの声をあげよと、主はわたしたちの前に立って招いておられるのです。

 教会の内外に、神に叫びの声をあげるべき現実が多くあります。その現実の中で虐げられ、今にも滅びようとしている人々の何と多いことでしょうか。だからこそ、キリストの体なる教会はその痛みと重荷を担って神に叫び続けるのです。教会が、そして教会に連なるわたしたちが、執り成しの祈りをし、神に叫び続けるならば、神の救いの御業が決して途絶えることはありません。神は今も、神の民であるわたしたちの執り成しを求めて、わたしたちの前に立っておられます。