聖書箇所:使徒言行録19章1~10節
だれもが主の言葉を聞く
今日の箇所は18章の最後にありますアポロのお話の続きとして記されています。アポロはエフェソに着いた当初、正確に教えていたけれどもヨハネの洗礼しか知らないという、理解が不足な点がありました。けれどもプリスキラとアキラの教えを受けて知識の不足を補い、教会の働きとしてアカイア州のコリントへ出発していきました。そこでアポロは活躍しました。まさにそのとき、パウロがエフェソに到着しました。そこで、前回のアポロのお話と同じようなことが起こるのです。パウロは何人かの弟子に出会いました。弟子と言われていますから、彼らはキリスト者であったようです。ただしプリスキラとアキラの教会に所属している人々ではありませんでした。そんな彼らにパウロは尋ねます。「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」。彼らは「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えます。彼らの理解において、「聖霊」が抜け落ちていることが分かります。それで、パウロが「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と言うと、彼らは「ヨハネの洗礼です」と答えます。弟子たちの理解は、エフェソに到着した直後のアポロの理解と重なります。
ヨハネの洗礼とは、後から来る方を求める悔い改めの洗礼です(4節)。この弟子たちは、後から来る方が主イエスであるということは知っていたでしょう。しかし主イエスが送ってくださると約束された聖霊についての理解がないのです。聖霊の働きは、罪人の心をキリストに向けさせ、教会へと結びつける働きです。その理解がないとどうなるか。キリストが現れたので、救いをいただくために自分が悔い改めを頑張ろう、という信仰にならざるを得ません。教会に結ばれる動機は乏しいわけです。そんな彼らに対してパウロは、改めてヨハネの洗礼の意味を彼らに伝えます。それはイエスを信じるための洗礼です。それは神の恵みによる救いであること、そして聖霊により教会に結ばれることなど、弟子たちに不足していた知識をここでパウロは教えたのです。弟子たちはパウロの教えを受け入れて、主イエスの名によって洗礼を受けました。するとその人たちに聖霊が降り、異言を話したり、預言をしたりしました。このことが記されている意味は、彼らが正しい理解を得て教会に結ばれたということです。これまでも使徒言行録で同じように聖霊が降っていますけれども、聖霊を受けた人々はその後必ず教会に結ばれているからです。同じことが、まさにそれがここでも起こったのです。その人数は、皆で十二人でありました。
8節からは、パウロは会堂に入って宣教する場面に移ります。この会堂は、18:19ですでにパウロが語ったことのある場所です。そのときは短い時間しか滞在できませんでしたが、今回は腰を落ちつけて彼らと議論しました。大半の人々は、パウロの話に耳を傾けてくれたようです。しかしごく一部の人々はかたくなで信じようとせず、会衆の前でこの道を非難しました。会堂の秩序が乱されるのは好ましくないということで、弟子たち共々パウロは彼らから離れました(9節)。これは抗議というよりも配慮の行動です。その後彼は、ティラノという人の講堂で毎日論じていました。講堂というのは、英語のスクールの語源となった言葉です。学校を間借りしたのです。当時の学校には、生活に余裕があり学ぶ意欲のある人たちが、各地から集まっていました。パウロはそこで二年にもわたって話したわけですから、アジア州に住む者はだれもが主の言葉を聞くことになりました。ここにおいては、直前に洗礼を受けた十二人も活躍したでありましょう。
本日のお話でパウロが出会ったのは、同じ聖書の神を信じていながらも、パウロ自身とは違う理解に立つ人々です。ヨハネの洗礼しか知らなかった弟子たちに対してパウロは、彼らの話を聞き、丁寧に彼らに正しい教えを伝えました。また、旧約聖書の神を信じていながらも会衆の前でパウロを非難する人々に対しては、会堂全体のことを考えて自らが会堂から退きました。今日のパウロの行動には、聖書理解の違う人々をいたずらに拒絶するのではなく配慮する姿が見られます。これらのパウロの行動をとおして、主の言葉がアジア州の人々に聞かれることとなったのです。見方を変えるならば、配慮するパウロをとおして、神はアジア州全体に主の言葉をお語りくださったのです。
現代はディスタンスが求められる時代です。会えない痛みがありますが、考えの違う人々への配慮をしなくても過ごせる時代でもあるように思います。自分と相手の考えが違うとき、「自分が正しくあなたが間違っている」と言って、すぐに相手を切り捨てることができる時代になりました。しかしそこからは、主の言葉は語られていかないのです。パウロはまず弟子たちの理解を聞いて、相手を理解するところから始めました。パウロは会堂において、全体のことを考えてあえて退くという決断をしました。パウロは、正しい主の言葉を伝えるという面ではあえて遠回りをしたとも言えます。しかし相手のためにパウロのような遠回りをする配慮が、案外大切なのではないでしょうか。主イエスの十字架と復活の御業も、神にとっては遠回りな御業だったことでしょう。神であられるキリストは、有無を言わさずわたしたちを従わせることもできました。しかしあえてキリストは世にお生れになり、十字架にかかられました。神がこれほどの遠回りをされたのは、神の愛を知らないわたしたちが、それを知ることができるようにするための神の配慮です。
ですから主の言葉を伝えるわたしたちも、あえて自分が言いたいことを一度こらえて、相手のために配慮し遠回りする者でありたいのです。遠回りとも思える配慮から、神はすべての人に主の言葉を語られるのです。