聖書箇所:使徒言行録19章11~20節
主イエスの名の示され方
パウロのエフェソ宣教は、おおむね順調に進んでいたと言えます。10節では、アジア州に住むだれもが主の言葉を聞くことになりました。今日の11~12節では、神がパウロの手をとおして目覚ましい奇跡を行われたことが記されます。そのこともあって、さらに主の言葉は広まっていくことになるわけです。新共同訳聖書では10節と11節の間で段落が分かれていますが、実際には一続きの内容です。パウロがエフェソで宣教し、誰もが主の言葉を聞くこととなった結果として、11~12節の奇跡がなされたのです。けれども見た目に分かりやすい奇跡の方に目が行ってしまうのが人間の性です。それが今日登場しますユダヤ人祈祷師たちの姿でありましょう。この物語や祈祷師の姿から、信仰者として歩むわたしたちが大変見失いやすく、しかし決して見失ってはならないことを見つめたいのです。
まずは、ユダヤ人の祈祷師について見てみましょう。祈祷師は、英語でいうエクソシストに対応し、悪霊祓いをしていた人々です。当時そのような人々が普通にいたようです(マタイ12:22~27参照)。このような悪霊祓い祈祷師が、手ぬぐいや前掛けだけで悪霊を追い出していたパウロを見て真似しようとしたわけです。それをしていたのは、祭司長スケワという者の七人の息子たちでありました。スケワという名前は、当時の祭司長の名簿には出てきません。祭司長を自称していたと思われます。彼の息子たちもまた、自分たちの名を挙げるために試しに主イエスの名を唱えたてみたわけです。これは、主の名をみだりに唱えることを禁じた十戒の第三戒の違反です。「みだりに」とは「空しく」という意味の言葉であり、一時的に過ぎないもの、過ぎ去るものを指します。スケワの息子たちは、一時的に過ぎない自らの名誉のために主イエスの名を用いたのです。
彼らのこの言葉の根本にあるのは、主の言葉を聞かない態度です。もし主の言葉に聞くことなく、結果の実り(例えば伝道や奉仕など)だけを求めるならば、その働きはスケワの息子たちのように、主の名を用いて働く自分を他の人々に認めてもらうことが目的になっていくでしょう。そのような働きが、はたして力を持つのでしょうか。それは15節以降を見れば明らかです。悪霊は彼らに言い返しひどい目に遭わせたので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げ出しました(15,16節)。軍配は悪霊にあがります。いくら形だけ主イエスの名を唱えたとしても、何の力もないのです。
しかしこの出来事が、それを知った人々に対しては大きな力を持つことになりました。キリスト者であるか否かに関わらず、人々に大きな恐れを抱かせることになりました。そして結果的に、主イエスの名は大いにあがめられるようになったのです(17節)。さらに18~20節が続きます。ところで18節にある「信仰に入った大勢の人」や19節の「魔術を行っていた多くの者」とは、一体どのような人々だったのでしょうか。通常「信仰に入った人」は、もうすでに信者になっている人々を指します。ですから18節で自らの悪行を告白し、19節で魔術書を焼き捨てているのは、エフェソ教会の中の人々、教会員たちです。エフェソは、異教宗教の総本山とも言えるような場所です(21節以降参照)。異教の生活に長くなれ親しんだ人々が、回心してエフェソ教会ができあがりました。しかし彼らは、慣れ親しんだ生活をすべて捨て去ることができたわけではありません。信者になってもなお、魔術書を持ち、まじないなどを行う人々が多かったのです。焼き捨てられた書物の価値が銀貨五万枚になったことがそれを示しています(銀貨一枚が、大人一人の一日分の賃金に相当)。彼らは信仰者でありながら、同時に救われる前に頼っていたものをも大切にし続けていたのです。そんなエフェソ教会の信者たちが、スケワの息子たちの出来事を見て魔術書を手放すことができたのです。自分たちが大切にしてきた魔術やまじないに、力がないと分かったからです。それ以上に主なる神こそ、そして主の言葉にこそ、偉大な力があることが示されたからです。ここで起こっているのは、教会の中の信仰の純化です。決して教会の外の人々が、罪を告白しながら次々と教会に来るというお話ではありません。すでに教会に結ばれ、すでに信仰に入っていた人々が、本当の意味で主の言葉に聞き従い始めたのです。このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まったのです。教会が悔い改て主の言葉に聞き従うことをとおして、主の言葉は力を増していったのです。
主の言葉が広まるとはどういうこと。それは決して、未信者の人々が主の言葉に聞き従うようになるだけではありません。すでに主イエスを信じている人々が、主の言葉に聞き従う行動を新たにすることからも、主の名は示され主の言葉の力は増していくのです。わたしたちもまた、主イエスを信じる前に大切にしていたものを、心の中の魔術書として持ち続けている者です。本当ならばそれには目をつむったうえで、教会の外にいる人々には「主イエスは素晴らしい」と言っている方が楽であり安全です。けれどもそのような主の言葉には、何の力もないのです。しかし主イエスキリストの十字架にこそ力があることを示す主の言葉をわたしたち自身が真摯に聞き、心からそれを受け入れて心の魔術書から解放されたとき、教会の語る主の言葉、主イエスの名は驚くべき力を持つのです。
この後、わたしたちは聖餐の恵みに与ります。ここにこそ真の救いが示されています。聖餐において示される十字架にこそ、すべてに打ち勝つ力があります。わたしたちが真にそのことを受けとめて歩みだすとき、パウロの手をとおして驚くべき奇跡が行われたように、神はわたしたちの手をとおしても驚くべき御業をなしてくださるのです。