2021年7月25日礼拝説教「命がけで逃れよ」

 

聖書箇所:創世記19章1~29節

命がけで逃れよ

 

 前回はアブラハムのとりなしのお話でした。18:23以下で、アブラハムの問いかけに対して神はお応えになられます。1人でも神の御前に正しい者がいるならば、神はその者のために全員を赦されます。これが主イエスキリストの十字架へとつながっていきます。しかし今日の箇所で、ソドムとゴモラは滅ぼされます。とりなしをしたアブラハムもソドムの町にいたロトも、キリストではないからです。このお話は主イエスを待ち望む旧約の時代の出来事だということを、わたしたちはまず覚える必要がありましょう。しかしアブラハムのとりなしにより、辛うじてロトと娘たちは救われました。わたしたちのとりなしは、千人、一万人の人を救い出す力はないのかもしれません。けれども、あの人を救いたい。そのような、切なるとりなしをすることは、神の御前に大いに意味があるのです。

 さて今日のお話は、アブラハムのとりなしを受けて破滅から逃れる側の視点に立った物語が展開されます。二人の御使いが夕方、ソドムに到着しました。そのときロトは、ソドムの門のところに座っていました。町の門は、町の長老たちがいる場所です。彼はこの町で、ある程度の地位を得ていたようです。しかし彼はその町での生活を謳歌しているわけではありませんでした。広場で泊まる行為が危険であることを知っていたので、二人の御使いをしきりに家に迎えるのです。御使いたちを家に招くと、彼は酵母を入れないパンを焼いて食事を供します。パンを発酵させる時間がないほどに、食事を急がねばなりませんでした。それほど切迫した状況のなかにあるのです。そして実際に、彼らが床に就く前にソドムの町の男たちが若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んでわめきたてました(5節)。なぶりものにしてやる。原文では「我々は彼らを知ろう」という言葉で、性的な交わりを意味します。それに対してロトは、嫁がせていない娘を差し出してまで客人を守ろうとします。この部分は、聖書が語ろうとする意味を丁寧に理解する必要があります。まずこの箇所は、同性愛に対する禁止や非難を意図してはいません。イザヤ書1:10やエレミヤ書23:14で言及されるソドムとゴモラは、同性愛の町とは言われていないからです。ここに描かれているのは、神に逆らう人々の姿です。具体的には、自分とは関係のない見ず知らずの寄留者を自らの欲望のはけ口としようとする姿です。もし我々が神に従わずに生きるならば、まさにこれらの町のような世界を生きなければならないのです。それはロトが娘二人を差し出しても客人すら守れない世界、大切なものをいとも簡単に奪い去っていく世界です。神から離れて生きるとき、わたしたちもまたこのような世界で生きなければならないのです。

 主なる神は、このような世界を滅ぼすために御使いを遣わされました。御使いはロトにそのことを告げます。いままさに、この町は滅ぼされようとしている。この切迫した状況を受け取ることができるか。そこに命を失うか否かの境界線があるのです。娘が嫁いだ婿たちは、それを冗談だと思いました。結果彼らは命を失うことになります。ロトは切迫した状況を受け取ることができました。しかし16節では、逃げることをためらいます。そのようなロトを主は憐れまれ、ロトと妻と二人の娘たちを、半ば強制的に町の外へと避難させます。しかしそこからは、自らの足で、命をかけて、自分の意志で逃れるように命じられます(17節)。ここでロトは、さらに主に嘆願します。山ヘは逃げられない。だから、あの小さな町に逃れさせてほしい。主はその願いを聞いてくださり、そこに逃れるまで町を滅ぼすのを待ってくださいました。しかしロトの妻は、後ろを振り向いたために塩の柱となりました。彼女はそれまでの生活を懐かしんだのです。それが命取りとなりました。その思いを振り払って逃げ切ったロトと娘たちは、生き延びて命を得ることができたのです。これが、アブラハムのとりなしの結果として主がロトを憐れまれた結果起こったことです。

 振り返ってわたしたち自身の救いについても考えたいのです。わたしたちは皆、先に救われた誰かのとりなしの祈りによって主イエスを信じることへと導かれました。皆がロトの立場なのです。しかし、誰かのとりなしによって実現するこの救いは、自分の足で命がけで逃れることによって実現する救いなのです。わたしたちが主イエスを信じようとするとき、様々な葛藤があり、それまでの生活に後ろ髪ひかれることもあります。わたしたちはそれらを振り払って、主イエスの十字架のもとに逃れてきたのです。

 

 罪人が救われる。これは100%神の御業による恵みの出来事です。しかしそれは、わたしたちの側の葛藤や悩みを無視するものではありません。わたしたち一人一人が悩み、葛藤し、それらを乗りこえて主イエスの御許へと逃れていくことをとおして、神の救いの御業は明らかとなるのです。このような葛藤や悩みは、救われたから終わるものではありません。救われてなお、わたしたちは神を信じていない人々の生き方に憧れ、ときに懐かしみ、後ろ髪をひかれ続けます。そのなかでわたしたちは、ソドムとゴモラから生涯逃げ続けるのです。わたしたちが逃れることのできるよう、神は配慮してくださいます。しかしそこからは、自分の足で逃げるようにと神はわたしたちを促されるのです。自らの欲望のために互いに傷つけ合い、大切なものを奪い去っていく神なき世界から命がけで逃れるように、神は招き続けておられます。この招き自体が、神の憐みによるものです。主イエスキリストの十字架と復活の御業によって、まさにわたしたちは世の悲惨から逃れることができる場所が与えられました。この神の憐みに応え、自らの足で、自らの意志で、主イエスの十字架の御許へと逃れ続ける者でありたいのです。