聖書箇所:使徒言行録22章6~16節
今、立ち上がれ
パウロの弁明の言葉に今日も聞いてまいりましょう。弁明の相手は、旧約聖書は信じているけれども主イエスが救い主であるとは信じていない人々です。5節まででパウロは、回心する前の自らの姿を語っています。そこから彼が主イエスと出会い、この方こそ救い主と信じるに至った回心体験が語られていきます。この出来事は、使徒言行録では9:1~19ですでに記されています。それをパウロ自身が「わたしが主イエスとであった」という語り口で語っているのが今日の箇所です。
キリスト者を処罰するためにダマスコに向かっていたかつてのパウロの周りを、真昼ごろ、突然天から強い光が照らしました。その結果、彼は目が見えなくなります。この箇所は申命記28:28~29を意識していると言われています。この申命記の言葉は神の民に対しして、神に逆らって生きることへの警告です。かつてのパウロは、自らが主なる神に熱心に仕えていると信じていたのです。そんな彼を、あろうことか主なる神が、御自身に逆らう者として打たれたのです。その結果パウロは地面に倒れます。地面とは、土台を意味する特殊な言葉です。このとき、パウロ自身の土台が崩れ去ったのです。そのとき彼は、主からの語りかけを聞きます。それに対して彼は訪ねます。「主よ、あなたはどなたですか」。その答えは、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」でした。パウロと一緒にいた人々は、その光は見たのですが、声は聞きませんでした。このとき主イエスと出会ったのはパウロ一人でした。パウロはさらに主にどうしたらよいのかと尋ねます。するとダマスコへ行けという指示がありましたので、一緒にいた人々に手を引かれてダマスコに入りました。主イエスとの出会いによって彼は地面に倒れ、主よ誰ですか、主よどうすればよいですか、と聞かざるを得ない状況になっています。主との出会いは、それまでの自らの生き方が完全に否定され、倒されることなのです。
主イエスとの出会いによってそれまでの自らの歩みが完全に崩れ去ったパウロに用意されていたのは、アナニアとの出会いでした。このアナニアは律法に従って生活する信心深い人で、すべてのユダヤ人の中で評判の良い人でした。ユダヤ人には、主イエスを信じていない人も含まれていたはずです。そのような人々からも良い評判を得ていたのが、アナニアという人でした。アナニアはキリスト者です。キリスト者であることと、律法を守ることは決して矛盾しないのです。このアナニアが言いました。「兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい」。するとそのとき、パウロは目が見えるようなりました。これによってこの時のアナニアが、神の御業において特別な立場にいたことが明らかとなります。このアナニアから、パウロが主イエスと出会うこととなった理由が語られます(14~15節)。それはまず神がパウロをお選びになったからです。その神とは「わたしたちの先祖の神」です。それは旧約聖書の神であり、パウロの弁明を聞いているユダヤ人たちが信じている神でもあります。この神が、パウロをお選びになりました。それは御心を悟らせ、あの正しい方(すなわち主イエスに)に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。このようにして主イエスと出会うことになったパウロが今なすべきことが16節で語られます。まずは立ち上がることです。パウロは、これまで自身が立ってきた土台が主イエスとの出会いで崩れ去り、地面に倒れました。しかし倒れたままではいけないのです。まず立ち上がれ。そしてその方(主イエス)の名を唱えて、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい。主イエスの名を唱える。洗礼との関係でいうならば、主イエスこそ救い主であると告白すること、信仰告白です。そして洗礼を受け、それによって、キリスト者を殺すことまでした自らの罪を洗い清めよ。こうアナニアは、パウロに伝えたのでした。こうして新しい生き方へと、パウロは召し出されて今に至るのです。
9章のパウロの回心物語と比較して、今日の箇所で特に強調されているのは、「旧約聖書の主なる神が」わたしを主イエスと出会わせられたのだ、という点です。パウロが話している相手は、旧約聖書の律法には熱心に従おうとする人々だからです。旧約聖書に示されている神とは、天地を創造された主なる神です。このお方が、その御計画によってパウロを主イエスの証人にしようとお選びになられました。神の大きな御計画の中で、神の御業として、パウロは主イエスとの出会いを経験したのです。
この視点で、わたしたちもまた自らの主イエスとの出会いを振り返りたいのです。わたしが主イエスと出会い、生き方を変えられた。これは今の時代にたまたま起こった小さな出来事ではありません。神の御計画のなかで起こったことです。この神は天地を造られた神であり、そこから歴史を導かれてきた神です。この方が、今この礼拝に集っているお一人お一人を選び、主イエスとの出会いを備えてられたのです。それはわたしたちが立派に生きたからでも、何か特別な能力があったからでもありません。むしろわたしたちは主イエスとの出会いによって、一度打ち倒されて無力にされました。しかしそこから立ちあがらせられて、今わたしたちはこの礼拝に集っているのです。このように神に担われて、わたしたちは今、救いの恵み、礼拝の恵みに与っています。そしてこのお方が、あなたを主イエスの証人として用いるのだと決めてくださって、今わたしたちはここにいるのです。この神に選び出されて、わたしたちはこの一週間の歩みへと召し出されていきます。神の大きな物語の中で、未信者が大半である世のただ中へと、主の証人として歩みだしていこうではありませんか。