2021年10月24日礼拝説教「神が約束されたとおりに」

 

聖書箇所:創世記21章1~8節

神が約束されたとおりに

 

 イサクの誕生は、アブラハムとサラ夫婦にとって長年願い続けてきたことの実現でした。彼らは12章で神に召し出され、神の言葉に従って旅立ちました。その先に、息子の誕生という大きな祝福が与えられたのです。それと同時にイサク誕生の出来事は、聖書全体の流れから見ても大変重要です。神による救いの約束が、イサク誕生によっていよいよ現実のものとなっていくからです。それゆえに、わたしたちがこの箇所をどう読み理解するかが、聖書全体の理解にも影響します。もしこの物語を、神に従ったら願いが叶った出来事として理解するならば、聖書全体も「自分の願いを叶えるために聖書を読み、神に従う」という信仰理解のもとに読むことになるでしょう。では聖書は、この物語からどのようなメッセージを伝えようとしているでしょうか。そのことを見てまいりたいのです。

 イサク誕生は、7節という短い箇所で記されています。その中で特徴的な表現が出てまいります。1節には、この出来事が「主は、約束されたとおり」、「さきに語られたとおり」実現したことが記されています。2節には「それは、神が約束されていた時期であった」との記載もあります。出来事そのものだけでなく、それが起こった時期についても神の約束のとおりであったということです。これだけでも、この物語のメッセージがよく表れています。これはアブラハムとサラの願いが叶った物語ではありません。神の約束が実現した物語なのです。だからこそ4節で、アブラハムの側も神が命じられたとおりイサクに割礼を施すのです。神が言われたとおりのこと実現してくださった。そしてアブラハムもまた神の言われたとおりに行う。神と、神の民との関係の一側面が、ここに記されているのです。

 さて6節からは、イサク誕生の際のサラの言葉が記されます。このサラの発言から、神の約束の実現の意味するところが、また別の側面から明らかになります。6節では笑い(イサク)が取り上げられています。イサクが生まれる前にも、彼女が笑った場面がありました。それはイサクの誕生の予告が神から与えられた場面です(18章)。この時の彼女の笑いは、喜びの笑いではありません。そんなことあるはずがないという諦めの笑い、希望のない笑いです。常識的に考えれば、彼女の諦めの笑いは当然の反応です。そのような絶望的な状況からイサクが誕生しました。望みなく笑うしかなかったところから、心からの喜びの笑いを神はわたしにお与えくださった。このことをサラは6節で証ししています。続く7節の言葉もまた、子供の誕生など望みのない状況から、子供が与えられた喜びが語られています。サラひとりが望みを持てなかっただけではありません。誰もアブラハムに子供が生まれるなど想像できず、誰もサラが子に乳を含ませるなど想像できなかったのです。このことを、ヘブライ11: 12では「死んだも同様の一人の人から…多くの子孫が生まれた」と記しています。年老いてもう死を待つしかない。それがアブラハムとサラの置かれた現実でした。そこから、大逆転勝利のように希望が与えられたのです。それが神の約束の実現のしかたなのです。神の約束の実現という出来事は、人の考えや理性や科学を超えたところで起こるのです。そうでありながら、それはわたしたちが見て触れることのできる現実世界の中で起こるのです。

 この事実が、後に生まれる神の民にとっては大きな希望でありました。なぜなら彼らは、エジプトでの奴隷生活、バビロン捕囚、ローマ帝国による支配と、何度も民族存亡の危機に直面したからです。これらは歴史的に見れば、弱小民族が大国に滅ぼされるという、よくある出来事です。しかしそれでも彼らは、目の前の絶望的な現実を打ち破り、この現実世界において神が約束を実現してくださるという希望を持ち続けたのです。その根拠が、今日のイサクの誕生の出来事だったのです。神は死んだも同然のアブラハムからイサクをこの現実世界に誕生させてくださった。同じように神は、自分たちが置かれたこの悲惨な現実の中でも希望を芽生えさせてくださる。それが、旧約時代の神の民の希望でありました。その希望の実現が、クリスマスにおける主イエスキリストの誕生であったのです。

 このような人の考えや理性や科学を超えた出来事を、奇跡といいます。聖書に記されているこのような奇跡の出来事に対してしばしばなされるのが、それを現実世界から分離しようとする試みです。一つはそれを現実世界とは異なる神話として理解しようとする試み。もう一つは、イサクを産んだのはサラではなく別の人物であった、といったような理性的な理解をしようとする試みです。もし聖書をこのように理解するならば、神はわたしたちが生きているこの現実世界に何の力も及ぼさないことになります。そのような神を信じたところで何の希望もありません。聖書は、神をそのような力のないお方として語ってはいません。わたしたちが日々生活し、目で見ることができ、手で触れることができるこの世界において、神は聖書に記された約束を実現してくださるのです。だからこそ、わたしたちもまたこの現実世界を無視することなく直視して、必死にその中で生きるのです。

 

 わたしたちが日々生きているこの現実とは、決して理想的なものではありません。しかしそのような現実世界こそ、神が約束を実現される舞台です。だからこそわたしたちは、この世界のなかで傷つきながら、涙を流しながら、一日一日を過ごすのです。そこでこそ神は、聖書に記された希望の約束を実現してくださるからです。現実世界の中で、死んだも同然のわたしたちをとおして、神は大きな希望を実現してくださいます。この希望を胸に、わたしたちは目の前に広がるこの現実世界へと歩みだしていくのです。