聖書箇所:使徒言行録22章17~21節
わたしがあなたを遣わす
本日はパウロがエルサレムで逮捕された際に語りました弁明の言葉の最後の部分を見てまいります。パウロはもともとキリスト者を迫害する者でした(22:1~5)。そんな彼が主イエスと出会い、回心します(22:6~16)。そして主イエスと出会ったパウロが、神によって異邦人の救いのために遣わされていくのが今日の場面です。わたしたちもまた、それぞれに神に遣わされて日々を歩んでいます。では、神に遣わされるという事実は、わたしたちにとってどのような意味を持つのでしょうか。ひと時教えられたいのです。
さて17節の最初を見ますと、今日の箇所の出来事が起こった時期が記されています。これは、使徒9:26~30で記された時期に該当します。彼はエルサレムに滞在していた期間に、神殿で祈っていました。パウロが告発されている理由は、彼が律法と神殿を無視しているというものでした(21:28)。しかしキリスト者に回心したのちも、自分は決して律法も神殿も無視していないということを、ここで弁明しているのです。そんな彼が我を忘れたようになり、神の御声を聞きました(18節)。平行記事である9:29~30には、パウロがエルサレムを離れた理由がパウロの身の安全の確保にあったことが記されています。しかしそれだけでなく、神御自身がパウロにエルサレムから出ていくように命じられましたことも理由であったのです。神がこのように命じられた理由。それは、パウロの証しをエルサレムにいる人々が受け入れないからです。
これに対し、パウロは19~20節の発言を主に答えます。少々つながりが見えにくいかもしれません。この発言でパウロは「エルサレムから出ていけ」という神の御命令に、異議申し立てをしています。このパウロの発言は、「わたしが」と「この人々は」に強調点があります。あえて訳すとすれば、「わたしこそが、キリスト者を迫害していたことを、彼らこそが知っている。」という言いまわしです。自らの過去を知っている彼らに宣教し、彼らを自分と同じような回心へと導くことが、この私に与えられた働きではないですかと、語っているわけです。適材適所で考えるならば、自分はエルサレムでかつての同胞たちに宣教すべきではないか。それが19~20節でパウロが神に語った言葉の意味なのです。
これに対して主は、21節の言葉を返されます。この文も、「わたしが」が強調されています。行け、わたしこそが、あなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。まさにパウロは、自分の意志や考えではなく神の御意志によって遠く離れた異邦人宣教へと遣わされていくことになるのです。それによって、「あなたがたは・・地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)と言われた主イエスの言葉が実現していくのです。
ここまでのやり取りから、神がわたしたちを遣わされることの意味を学ぶことができます。語弊を恐れずに言えば「適材適所ではない」ということです。もちろん神から見れば適材適所であるわけですが、わたしたちの目には適材適所には見えないことが往々にしてあるということです。わたしたちが神からの召しを考えるにあたって、しばしば自らの目で見た「わたし」に捕らわれることがあるのです。わたしの能力、わたしの経験、わたしの賜物。それらから判断して、わたしはこの働きに召されていると判断する。パウロもそうでした。このように自らの姿を見つめるということ自体は、大切なことです。しかしそれがすべてではありません。そういったものを超えて、神は神の民を遣わされるからです。わたしこそがあなたを遣わすのだ、と。世の中には、牧師になるなんて思ってもみなかったのに牧師をしている先生方がたくさんいます。かく言うわたしも、自分が牧師になるとは思っていませんでした。これもそのことの一つの例でしょう。もしわたし自身が考える神の召しが、神御自身の召しと常に同じならば、神はわざわざ「わたしが」あなたを遣わすなどと言われる必要はないのです。しかしあの使徒パウロですら、自らの考える神の召しと、神御自身の召しとは違っていたのです。そうであるならば、わたしたちもまた、自らに与えられる神の召しを「こうに違いない」と決めつけるべきではないでしょう。
しかし一方で、神の召しがわたしたちの目からは不思議に見えるがゆえに、最初からそれを素直に受け入れるということが難しい面もあるのです。パウロもまた、自らの召しを示された神に対して異議申し立てをしました。わたしたちが神の召しに従うことには、葛藤があるのです。むしろこういった神との真剣なやり取りをとおして、わたしたちの目には不思議に見える神の召しは与えられるのです。主イエスは十字架に架けられる前に、ゲッセマネでこう祈られました。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカ22:42)
主イエスもまた、自らの召しに葛藤しておられました。この方の血と肉に、わたしたちはこの後の聖餐式で与ります。この方を自らの主人とする生き方へと、わたしたちは召されています。この教会にも、ここに集う皆さんお一人お一人にも、多くの葛藤がおありになるでしょう。信仰があるから悩みがなくなるわけではありません。信仰を持つと、葛藤なく神に従うことができるようになるわけではありません。神を信じ、主イエスキリストを信じているからこそ、わたしたちは葛藤するのです。神の思いと自らの思い。その葛藤の中で神は、「わたしがあなたを遣わす」と語られます。この神の御声に身をゆだねるとき、わたしたちは驚くべき神の救いの御業を仰ぎ見ることになるのです。