聖書箇所:イザヤ書9章1~6節
絶えることなく、永遠に
今日お読みいただいた御言葉は、クリスマスによく読まれる御言葉です。しかしこの箇所とキリストとの結びつきを強調するあまり、この箇所が本来語ろうとしている意味や意図が、無視されてしまっている面がないだろうかと思うのです。そこでまずはイザヤ書の流れのなかでこの御言葉を読み、改めてわたしたちに与えられた救い主がどのようなお方であるかを覚えてまいりましょう。
9:1では、民に与えられる喜びが記されています。喜びが与えられるのは闇の中を歩む民であり、死の陰の血に住む者です。直接には、南ユダ王国の国民である神の民を指しています。しかし彼らは、神の言葉に信頼しきることができずにいる人々でもありました。彼らはアッシリアという大国との同盟によって王国滅亡の危機的事態の打開を図ろうとしました。この計略は一時的にはうまく行きます。しかし結果的には、助けを求めたはずのアッシリアに攻め込まれることになり、悲惨な状況に追い込まれるのでした。まさに闇の中、死の陰の地へと転がり落ちていくのです。しかし最後の悲惨だけが闇なのではありません。自らの処世術で一時的にうまくいっているときも含め、神から離れて悲惨へと向かう民の歩み全体が闇なのです。そしてこれは、地上を歩むすべての人々の姿ではないでしょうか。自らの力や処世術によってこの社会の中を立ち回っています。そして一時的にはうまく行くこともあるのです。しかしそれが永続することはありません。いずれ老いて力を失い、最後には死を迎えます。どのような栄光も一時的であり、いつかは消え去るのです。それにおびえながら、人は地上を歩んでいます。この世に神はないとするならば、わたしたちはそのような闇の中を生きせざるを得ないのです。
そのような悲惨な闇の中を歩む民に、光が与えられます。それは刈り入れの喜びであり、戦利品を分け合う楽しみです(2節)。どちらにしても、それは現代のわたしたちが想像する以上の、この上ない喜びです。民がこれほど喜んでいる理由。それは神の民の負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を、神がミディアンの日のように折ってくださったからです(士師7章)。このとき、ギデオンに同行する兵士の数は神の御命令によって三百人まで減らされました。その理由は、民が自分の力で勝ったと勘違いしないようにするためでした。つまりミディアンの日というのは、人の力ではなく神御自身の力によって勝利を得た出来事です。それと同じことを、神が行ってくださったがゆえに、民は喜んでいるのです。前述のとおり、闇の中を歩んでいたときの民は、自らの処世術によって事態の打開を図ろうとしていました。神の民の頭の中にあったのは、自分のことは自分の知恵や力で守らないとしょうがない、という思いであったでしょう。その民に、神の力による勝利が与えられました。その結果、地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく日に投げ込まれ、焼き尽くされるのです。もう自分の力で戦わなくてもよいのです。神が、勝利を得てくださったからです。
ではこのような神の力による勝利が、どのように与えられるのでしょうか。ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれることによってです。彼は権威をもって人々を治める王です。驚くべき指導者とありますから、驚くべき方法で人々を治める王です。同時に力ある神とも呼ばれます。永遠の父ですから、その支配は永遠に続きます。そして彼がもたらすのは平和です。このお方が王になられることによって、ダビデの王座とその王国は、権威が増します。これは直接には、南ユダ王国を指しています。この国は大国にほんろうされる弱小国にすぎません。しかしひとりのみどりごが王になられるとき、もはやこの国に平和は絶えることがないのです。この王国は、正義と恵みの業による良い政治によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられます。人の力によらず、万軍の主の熱意によって、このことが成し遂げられます。
この預言の成就として、主イエスキリストは誕生されました。このお方は人間的な知恵や力、軍事力によって一時的な平安をもたらすのではなく、絶えることのない平和をもたらすお方です。この王なるキリストについて、オランダの神学者アブラハムカイパーが、次の言葉を書いています。
「この王こそ偉大な王である。この王は自分のために国民の血を求める王ではなく、国民のために自分が血を流して永遠の平和とその喜びにあずからせてくださる方である」
自らが十字架で血を流し、それによって神の民を従わせる。それが主イエスキリストという驚くべき指導者です。この方が、絶えることなく永遠に立てられる国の王となられました。それは人の治める王国ではなく、キリストに従う民があつまる教会です。この教会もまた、南ユダ王国と同じく弱小国です。しかしそのような教会こそ、時代を超えて絶えることなく永遠に存在するのです。この教会に集う神の民であるわたしたちのすべきことは、教会の王である主イエスキリストに従うこと以外にありません。これは自分の力で攻めたり攻められたりしながら、敵の血を流して事態の打開を図る生き方ではありません。我らの王キリストは、自らに逆らう人々、自らを信じない人々のためにまず自らの血を流されたお方です。この恵みをいただいて、わたしたちはキリストに従う神の民とされました。だからわたしたちも、この主イエスキリストという王に従う者でありたいのです。誰かのために、特に自らに都合が悪いと思うような人々の救いのために痛みを負い、自らの血を流す者でありたいのです。こうして我らの王であられるキリストの愛を示す者でありたいのです。神の民であるわたしたちがそのように歩むとき、キリストの王国である教会は絶えることなく、永遠に立てあげられていくのです。