聖書箇所:使徒言行録24章10~27節
延期と停滞
23章までにおいて、パウロがカイサリアに護送され、総督フェリクスに会う場面まで学びました。フェリクスの判断によりまして、パウロを訴えている人々がカイサリアに到着してから裁判が始まることとなりました。その人々が到着し、いよいよ裁判が始まるのが24章の内容です。告発者の側の言い分(2~9節)を見ますと、それは大変いい加減なものです。ほとんどがフェリクスをほめて懐柔しようとする内容です。5節からようやく語られ始める告発の内容も、漠然としたものです。パウロは疫病のような男であり、ユダヤ人の間に騒動を起こしている人物である。ナザレ人の分派の首謀者であり、神殿さえも汚そうとしたため逮捕した。そして、閣下御自身がお調べくださればそのことが分かると締めくくっています。「お調べくだされば分かる」と発言するということは、証拠の類を一切示すことができていないということです。
これに対してパウロはまず、自らが礼拝のためにエルサレムに上ってから十二日しか経っていないと語ります(11節)。この程度の期間ですから、パウロの行動に何か問題あれば、誰かの証言を取ることは十分に可能です。それにもかかわらず、パウロが誰かと論争したり群衆を扇動したりするのを誰も見た者はいないのです。告発に対する反論としては、ここまででほぼ十分だったように思います。ローマ帝国での裁判は告発者の側に立証の義務があり、被告の側は自分で無実を証明する必要がないからです。けれども彼の反論は、この後21節まで続いていきます。そのなかで、パウロ自身の信仰の証しもまた語られていきます。このような機会をとおしてキリストを証しする意図も、彼の中にはあったように思うのです。
続く14~16節も見てみましょう。告発者たちの主張は、パウロが怪しい分派の首謀者で騒動を起こす者であるということが中心です。騒動が発生することについては、ローマ帝国も敏感であったからです。この主張に対してパウロは、分派と言えど、信じている内容は告発している側の人々と共通する部分が多いと反論いたします。旧約聖書を信じている点は、告発者の人々もパウロも同じですから、ある意味で当然のことです。17節からはより具体的に、パウロのエルサレムでの行動が語られていきます。彼がエルサレムに来た目的は、同胞に義援金を渡すためであり、また供え物を献げるためでした。騒動を起こすことなどまったく目的外ことでした。ただしアジア州から来たユダヤ人たちが、パウロが神殿に異邦人を連れ込んだと思い込んだのは確かです。それは勘違いであったわけですが、それをきっかけとしてローマ軍が出動するほどの騒動が起こったのです。であるならば、この人たちがパウロを訴えるのが筋です。そこには関わっていない大祭司や長老たちが出てくるのは、そもそもおかしなことなのです。
これらの弁論の結果、フェリクスは千人隊長リシアが降って来るまで裁判を延期することにしました。それはフェリクスが、この道(すなわちキリスト教)についてかなり詳しく知っていたためです。彼はこの地方の総督ですから、職務を遂行するにあたってキリスト教について耳にする機会は多かったでありましょう。その経験から、簡単に判決を下すべきではないと判断したのかもしれません。彼は再びパウロを監禁するよう百人隊長に命じました。監禁といいましても、牢屋に入れたわけではありません。訪問者には自由に会うことができる形で、しかるべき場所に留まらせたというのが実際でありました(23節)。こうしてパウロは、カイサリアに留まることを強いられました。その彼のもとにフェリクスが妻ドルシラと一緒に来て、パウロからキリストへの信仰について聞くことになります。彼らに信じる気はありません。また、パウロから金をもらおうとする下心もあっての行動でありました。そんなフェリクス夫婦に対してパウロは、正義、節制、来るべき裁きについて真剣に語りました。対してフェリクスには、ユダヤ人に気に入られたいという思いもあり、その結果パウロは二年ものあいだ監禁されたままでした。
パウロは長期間カイサリアに足止めされることとなりました。ローマで証しするという神の御計画もまた、足止め状態であったのです。その間パウロの状況は一向に改善しません。この間パウロは裁判においても、あるいはその後に話を聞きにきたフェリクスに対しても、真剣にキリスト教の教えについて証ししています。そしてそれ以外の行動は、記されていません。神の御計画が再び動き出すのを待っていたように思うのです。ここから、神の御計画の実現における「待つ」ことの大切さを思わされます。錦の御旗や水戸黄門の印籠であれば、それを見せるだけで反対者たちを黙らせることができます。しかし神の御計画はそうではありません。神の御計画に従っていたとしても、反対にあうのです。妨げられ、延期と停滞を強いられるときがあるのです。神の御計画に従った主イエスキリストも、地上の御生涯を様々な人々の反発のなかで歩まれました。たとえ神の御計画に従って歩んだとしても、思い通りに進まないこともあり、停滞することもあるのです。今日のパウロがそうでした。フェリクスに真剣に証ししても、暖簾に腕押しだったと思うのです。何も改善しない。何の手ごたえもない。神の御計画が実現する過程で、そのようなときがあるのです。だからといって、焦る必要はありません。どうせうまくいかないとあきらめたり、あるいはいたずらに成果を求めて焦ったりする必要はないのです。そのような延期と停滞のなかでこそ、落ち着いて神の御計画が示されている御言葉に聞き、たとえ暖簾に腕押しのように感じたとしても、神の御前になすべきことを忠実になし続けるものでありましょう。