聖書箇所:使徒言行録25章1~12節
裁きの場所
パウロがローマで証しする。この神の御計画が実現していく過程の御言葉に、今日も引き続き聞いてまいりましょう。フェリクスが総督を退任し、後任のフェストゥスによって改めて裁判が開かれたのが今日のお話です。聖書においては裁判や裁きという言葉が繰り返し出てまいります。それらは単に法定での裁判にとどまらず、支配の実現として理解するのが適切です。裁判を受けるということは、その裁判を司る支配に従うことでもあるのです。
このことを踏まえて、今日の御言葉を見てまいりたいのです。総督になったフェストゥスは、着任早々にカイサリアからエルサレムに上りました。その席で祭司長たちやユダヤ人のおもだった人々はパウロを訴え出て、彼をエルサレムに送り返すよう頼みました。彼らはその道中でパウロを殺そうと陰謀をたくらんでいました。これは二年前に計画された陰謀と同じです(23:12以下)。それに対するフェストゥスの返答が、4、5節です。おそらく彼は、パウロのことを前任者のフェリクスから何も引き継がれていなかったものと思われます。それゆえに彼は淡々と、ローマの法に則ってあなたたちがカイサリアで訴え出ればよいと答えたのです。結果的にそれが、パウロを陰謀から守ることとなりました。フェストゥスは、カイサリアに下った翌日には裁判の席に着いています(6節)。そこにパウロが出廷しますと、エルサレムから下ってきたユダヤ人たちがあれやこれやと重い罪状を言い立てました。けれども、二年前ですら証拠がなかったことをこのとき立証できるはずがありません。それに対してパウロは無罪を主張して弁明します(8節)。このようなやり取りに対してフェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロにエルサレムに移動しての裁判を提案します(9節)。「わたしの前で裁判を受けたいか」と言っていますけれども、事実上は総督立ち合いのもと最高法院での聖書の律法に基づく裁判を希望するか、という問いです。この世の権力による裁判ではなく、聖書の御言葉に基づく裁判をあなたは希望するのではないかとパウロは問われれば、信仰者としては危険と分かっていたとしても聖書の御言葉に基づく裁判を無条件で選んでしまいがちです。しかしパウロは、自身が皇帝の法廷に出頭しており皇帝による裁判を希望すると答えます(10~11節)。皇帝への上訴は、ローマ帝国市民権所有者に認められている正当な権利でした。このことについてフェストゥスは陪審の人々と協議し、パウロの宣言に従って皇帝のもとに出頭するよう言い渡しました。このようにしてパウロが神のご計画に従ってローマへと行く道が開かれました。
ここまでフェストゥスによる裁判を見てきました。今日のお話でパウロは、エルサレムでの最高法院による法廷ではなく、ローマでの皇帝による法廷を選びました。とはいいましても、パウロが聖書の御言葉による裁きではなくローマ皇帝の支配に従うことを選んだわけではありません。パウロの行動の背景にあるのはどこまでも、「あなたはローマで証しする」(23:11)との主の言葉なのです。この言葉が、パウロにとっての主の裁きであり主のご支配の言葉なのです。一貫してパウロが従っているのは、この主の言葉であり、この主の裁きです。それに基づいて、彼は皇帝への上訴を選んだに過ぎません。仮にパウロが神から「あなたはエルサレムで証しする」と言われていたならば、それがいくら危険で不当な裁判であったとしても彼は迷うことなく最高法院での裁判を選択したでしょう。しかし自分はローマで証しするのが、主の裁きですから、パウロは皇帝の権威を用い、ローマ法における自らの権利を総動員して、この主のご支配に従ったわけです。ここに、世俗権力の中で生きるわたしたちキリスト者の生き方を見ることができるのです。
この世界には様々な秩序があり、権威があります。我々はそれに服しながら歩んでいます。しかしそれらがわたしたちを支配する頂点の権威ではないことをも、我々は知っています。その上に、主なる神のご支配がありキリストの権威があるのです。我々もまた、究極的にはこの世界の最高権力者であられる主、キリストのご支配に従って生きるのです。そのための一つの手段として、世の様々な権力や権威に従うのです。どのような行動をするにしても、誰の言葉やどのような規則に従うにしても、このわたし自身が従うべき権威はわたしを十字架の血潮によって買い取ってくださったキリストです。たとえ未信者の方々の言葉や、世の権力者、あらゆる規則に従うときであっても、この姿勢をぜひとも保ち続けたいのです。
パウロはロマ書14章8節でこのように書いています。
「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」
まさにこの言葉に基づいた行動として、パウロは今日の法廷でのあらゆる発言をしたのです。彼は皇帝の法定に立ちながら、その先にある神の裁きに従い続けたのです。生きていくうえで、様々なものがわたしたちを裁くでしょう。あなたはこうしなければならない、あなたはこうすべきだ、との周囲の人々の言葉、SNSの記事など、様々な裁きの言葉がわたしたちを支配しようとします。そのようなとき、それがキリストの御心に従うのに有益ならば、わたしたちは従うのです。今日のパウロが神の言葉に従うために世俗の権利を用いて皇帝に上訴した行動が、まさにこれにあたります。これがわたしたちキリスト者の生き方なのです。光が見えにくい今の世だからこそ、この社会のなかで、喜びと希望をもってこのお方の裁きに従い続けてまいろうではありませんか。