2022年3月27日礼拝説教「神の慈しみに守られる旅路」

聖書箇所:創世記24章1~27節

神の慈しみに守られる旅路

 

 アブラハムの妻サラの死後、息子イサクの妻としてリベカが見出されていくお話がここから始まります。アブラハムは、息子イサクの妻となる女性を見出すという大切な任務を、家の全財産を任せている年寄りの僕に委ねます(2~4節)。このアブラハムの命令に対して僕は尋ねます。その娘がこの土地へ来たくないと言ったら、御子息を連れて行ってもよいか、と。しかしアブラハムの答えは「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。」でした。しかし単なる拒否ではなく、神がそこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる、との励ましをも語ります。それでも女がこちらへ来たくないというならばこの誓いは解かれる。しかし、決して息子をあちらに行かせてはならない。このように、アブラハムは僕に厳しく命じたのでした。アブラハムが僕に命じた一連の内容は、「あなたの子孫にこの土地を与える」との神の約束に基づいています。だからこそアブラハムは、これほど厳しく命じたのです。

 このようなアブラハムの命令に押し出されて、僕の旅が始まります。彼はアブラハムの故郷であるアラム・ナハライムのナホルの町に出発しました。彼はその町の外れにあります井戸の傍らに、らくだたちを休ませて祈りました(12~14節)。自分が水を頼んでみたときに、自分とらくだに水を飲ませてくれる娘を、イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。かなり強引な祈りに見えます。しかし祈り終わらないうちにリベカがやってきます。彼女はアブラハムの兄弟の孫娘でした。彼女は美しく、処女でありました。そして17~21節において、先に僕が祈ったとおりのことがリベカをとおして起こったのでした。そこでこの僕は、リベカこそ神がイサクの妻として備えてくださった女性であると確信し、主人から託されていた贈り物を取り出しながら彼女の身元を尋ね、今晩泊めてくれるよう頼みました。するとリベカは自らの身元を明かしつつ、泊まる場所があると答えます(24~25節)。僕はこのときはじめて、リベカが自分の主人アブラハムの親戚であることを知りました。彼女こそ、イサクの嫁として主が備えてくださった女性であるとの確信は、より確かなものとなりました。彼はひざまずいて主を伏し拝みつつ祈ったのでした(27節)。自らの旅路に与えられた神の導きを悟った僕は、神に礼拝をささげたのでした。

 今日のお話のなかで目につきますのは、人の側で神の行動を決めるような発言が見られることです(7節後半のアブラハムの発言と、14節の僕の祈り)。これらの言葉は、一見すると神に人の側の都合を押し付けるような態度にも見えます。「わたしはこうします。ですからあなたはこうしてください」といった具合に。しかしそうではありません。注目すべきはこれらの発言の動機です。14節の最後で僕は、自らの祈りが聞かれることによる目的として「わたしは、あなたが主人に慈しみを示されたのを知るでしょう」と語っています。またその慈しみも漠然としたものではなく、神がアブラハムに示された約束が実現することによって示されるものです。7節のアブラハムの発言にしても、14節の僕の発言にしても、そのベースにあるのは神の約束の実現を求める思いです。それらの願いは、すべて聞かれることとなりました。その結果、僕は神の慈しみとまことに感謝し、神を礼拝することへと導かれたのです(26~27節)。

 ここで神を礼拝した僕の感謝の中心にあるのは、神の導きです。僕は、自らの旅路に与えられた神の導きを深く確信しています。ただ、今日のお話の中で奇跡的なことや常識外れなことは、実は何も起こっていません。僕はただ旅をして、そして偶然主人の一族の娘に出会っただけです。彼は、一見すると何の変哲もない自らの旅路に、神の導きがあったことを確信しています。それに深く感謝し、主を礼拝したのです。これが、聖書の示す神の導きであり、それに感謝する信仰者の姿なのです。全能の神の超自然的な力に頼り、特別なこと、奇異なこと、非科学的なことに期待するのが聖書の信仰ではありません。自らの地味で日常的な生活の中で、また様々な苦難を潜り抜ける歩みの中で、神の導きや慈しみとまことが与えられいると確信すること。そのことに感謝し、神を礼拝することこそ、信仰者の姿なのです。

 このような神の導き、神の慈しみとまことは、神の約束が実現していくなかで示されていきます。アブラハムにとってそれは「あなたの子孫にこの土地を与える」との約束です。わたしたちにとっての神の約束は、聖書の御言葉です。御言葉に聞かずして、神の導きや慈しみを確信することはできません。この御言葉の中心に、アブラハムの子孫であられる主イエスキリストの十字架と復活による救いがあります。わたしたちの歩みのなかで、この救いが実現していくとき、わたしたちは自らに与えられている神の導きと慈しみを確信するのです。それは第一に、わたし自身が救われた事実に現れています。また自らの歩みの中で、隣人が主イエスの十字架によって救われていくとき、そして兄弟姉妹が御言葉によって立ち上がっていくとき、そこにもまた神の導きと慈しみがあることをわたしたちは確信するのです。その導きと慈しみに感謝し、わたしたちは神に礼拝をささげるのです。

 

 わたしたちの信仰生活の大半は、大変地味で、悩みが多く、困難な歩みなのです。そのような信仰の旅路において、神は御言葉に示された約束を実現してくださるのです。主イエスの十字架によって救われ、信仰が与えられたわたしたちは、この日常の歩みのなかから神の慈しみと導きを知ることができるのです。日々わたしたちに豊かな慈しみを注ぎ、導いてくださる神に感謝し、共に神を讃えながら一週間の歩みを始めようではありませんか。