聖書箇所:使徒言行録26章1~11節
この希望を抱くがゆえに
ユダヤ人たちから訴えられたパウロは、総督フェストゥスによる裁判を経てローマへ護送されることが決まりました。護送までの期間に、総督フェストゥスのもとにアグリッパ王がやってきまして、彼もパウロから話を聞くことになりました。その際にパウロが語った弁明の言葉が、今日のところから記されてまいります。弁明とありますが、パウロが語ったのは主イエスキリストの証しでした。本日はその言葉の最初を見てまいります。ここでパウロは、自らがどのような人間かを語ります。この部分から感じますのは、パウロがアグリッパ王という人に合わせ、この人に伝わるように話す姿です。アグリッパ王は、王と呼ばれていますから権力者であることは間違いありません。彼に対してパウロは、「ユダヤ人の慣習も論争点もみなよくご存じだからです」と語り掛けています(3節)。事実この人は、ユダヤ教に大変熱心な王でした。ですから今日のパウロの証しは、異教徒への伝道ではありません。この当時はまだ新約聖書はありませんから、聖書についてはキリスト教もユダヤ教も同じです。同じ聖書を信じていながら、その聖書の理解が違う人への証し。それがここでのパウロの弁明なのです。
同じ聖書を信じているならば、対話がしやすいとは限りません。そもそもパウロを訴えていたのは、やはり聖書を受け入れているユダヤ人たちでした。もしパウロが聖書に基づかない全く違う教えを広めていたならば、彼らがパウロをここまで毛嫌いすることはなかったはずです。これは何も特別なことではありません。同じキリスト者であっても、教派が異なれば相手の聖書理解に違和感を持つことがあります。それどころか同じ教派・同じ教会に属していても聖書理解が異なる部分があるのであり、それゆえに教会内にも対立や不一致は起こるのです。そのなかでどう対話の土台を築いていくかは、わたしたちにとっても無視できない課題です。
ところでパウロを訴えたユダヤ人たちから見ると、パウロは同じ聖書を信じていながら自分たちとは違う希望を抱いている異端者として映っていたでしょう。アグリッパ王もまた、同じだったと考えられます。そのようなアグリッパ王に対してパウロは、自分もあなたと同じく旧約聖書に熱心に従う信仰を持つ者だと語るのです。特に6節の言葉が印象的です。自分が訴えられているのは怪しい教えを広めているからではなく、それどころか自分は人よりも旧約聖書において先祖に与えられた約束の実現に望みをかけている。だから訴えられているのだ。そういったパウロの思いが、この言葉に表れています。9節以降でパウロは、過去の自分が熱心にイエスの名に反対する者だったことを語ります。これも、自分がいかに旧約聖書の伝統的な教えに熱心な信仰を持っているかを伝えようとした意図があるでしょう。今日の箇所でパウロが語った内容は、アグリッパ王もよく理解し同意できたはずです。もちろん主イエスキリストというお方に対する理解において、両者には大きな隔たりがありました。けれどもパウロは、自らと考えの違う人に対して、いきなり正論をぶつけたわけではありません。相手の理解に寄り添って語り始めたのです。このような語りから、当時広まり始めたばかりのキリスト教が決して異端的で危険な教えではなく、むしろ旧約聖書に基づく健全な教えであることが示されていったのです。
ではわたしたちは、自らと違う理解、自らとは違う考えに耳を傾けることなく、一方的に自らの考えを主張することだけに終始していないでしょうか。
相手に耳を傾けるといっても、自らの理解を捨てて相手に合意するのではありません。パウロとて、自分の確信を曲げてユダヤ人たちやアグリッパ王の理解に合わせることはしません。しかしだからといって一切相手に耳を傾けず、独りよがりに自分の理解を押し付けるのでもないのです。彼らの考えを理解し、寄り添った内容から証しを始めたのです。このような相手に寄り添う態度は、主イエスキリストが地上に降られたことにもつながります。キリストは神なのですから、自らが苦しむことなく天から一方的に御言葉を語ることもできたのです。しかし主はわたしたちと同じように人生を歩み、わたしたちと同じ苦しみを経験されました。それはわたしたちに寄り添うためです。そこまでわたしたちに寄り添ってくださるお方の言葉だからこそ、わたしたちは安心してこの方の言葉に聞き従うことができるのです。
この方の証し人として、わたしたちは立てられています。そのわたしたちが、自らとは理解の違う人々の話を聞かず、寄り添うことなく、一方的に正しい理解を押し付けて語ってはならないでしょう。主を証しする、伝道すると言われますと、どうしても「自分がどう語ろうか」という思いが先に立ちがちです。しかし御言葉を語る以前に、まず大切なことがあるのです。キリストがわたしたちを理解し寄り添ってくださったように、わたしたちもまず相手を理解し、寄り添うところから始めたいのです。最近「論破」という言葉が流行っています。自分と考えや言い分の異なる人を、言い返せないほどにに説き伏せることです。自分に反対する人々に対して論破できれば、それは気持ちいいでしょう。しかし主イエスの証し人とされたわたしたちに求められているのは、正しい教えを一方的に振りかざして人々を論破することではありません。まず相手の言葉を聞き、その立場を理解し、寄り添うことです。そのなかでこそ、人々に届く言葉、人々を立ち上がらせる主の御言葉は語られていくのです。誰よりも主イエスキリスト御自身が、この地上を歩まれたことをとおして、わたしたちに寄り添ってくださいました。同じようにわたしたちも、あらゆる人々に対して寄り添い、その苦しみを理解する者でありましょう。そこから、主の御言葉は世に広がっていくのです。