聖書箇所:使徒言行録26章12~23節
示されたことに背かず歩む
パウロがアグリッパ王に対して自らを弁明した言葉に、わたしたちは聞いています。アグリッパ王は、権力者でありながら聖書に精通している人でした。聖書を受け入れている人に向かって語る。この点に、この箇所のパウロの弁明の特徴があります。
12節の前に小見出しがついています。その下には、聖書箇所が二箇所記されています。これらの箇所で、すでにパウロの回心体験が言及されています。この回心体験が語られるのは、今日の箇所で三回目です。これら三つの箇所を比較しますと、今日の箇所でパウロが強調している点を見ることができます。初めて回心体験が記される9:1~19では、経緯説明が中心です。パウロは目が見えなくなった後、アナニアがパウロの目を開かせます。目が開かれたパウロがどのような働きへと召されていくかは、ここでは明かされていません。次に二回目に回心体験が記されている22:6~16では、この回心体験とパウロの働きが結び付けられています。パウロの目を開いたアナニアは、パウロが見聞きしたことの証人となると語っています(22:15)。三回目の箇所である今日のところでは、もはやアナニアが登場しません。アナニアの言葉も含めて、天から主イエスが語られたこととして説明されています。パウロは、アナニアという人間を介して自らに語られたこともまた、天からの語りかけとして理解しています。それが自らを働きへと召し出す神の御心に沿ったものだからです。これは何も特別なことではありません。例えば人間から語られた説教を、わたしたちは神からの語りかけとして受け取ります。誰かが自らに語った言葉を、が自分に語ってくださったものと理解することもあるでしょう。パウロにとってのアナニアの言葉は、まさに主イエスが自らを召し出す語りかけであったのです。こうして語られた主の言葉をとおして、パウロの働きの内容が詳細に明かされています(17,18節)。まずパウロがこの民(すなわちユダヤ人)と異邦人の中から救い出された理由です。それは救い出されたパウロが、今度は彼らのもとに遣わされるためです。こうしてパウロの目が開かれたように、彼らの目もパウロの説教をとおして開かれるのです。このようにして彼らを闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせる。これがパウロの召された働きです。「サタンの支配からの解放」が意味する内容は、この直後に語られています。わたしへの信仰(すなわち主イエスキリストへの信仰)によって、彼らが罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになることです。このことにおいては、もはやユダヤ人も異邦人も関係ありません。すべての人に対するこの救いの実現のために、わたしパウロは神から遣わされたのだ。こうパウロはアグリッパ王に語るのです。
このようにして神に遣わされたパウロの宣教方針は、18節までにおいて天から示されたことに背かない(19節)ということでありました。その具体的な行動が、20節で示されています。この働きのゆえに、まだ闇のなかのサタンの支配の中にあるユダヤ人たちは自分を捕らえて殺そうとしたのだと、パウロはアグリッパに説明するのです(21節)。続く22節を見ると、パウロの宣教方針がもう一つ語られています。それは預言者たち(すなわち旧約聖書の預言書)やモーセ(すなわち旧約聖書の創世記から申命記)が必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べないということです。彼は劇的な回心体験をしました。しかしこの体験をことさらに強調して宣教することをしませんでした。彼の宣教はどこまでも聖書に基づくもの、聖書が必ず起こると語ったことが実際に起こったのだ、というものでした。その具体的な内容が23節です。この内容は、主に旧約聖書のイザヤ書において示されていることです(イザヤ書53章、42:6~7、49:6など)。これらの内容は、さきほどの18節で主イエスがパウロに語られた言葉につながります。これらの聖書の言葉が、主イエスキリストにおいて実現した。これがパウロの宣教メッセージの中心であったのです。そしてこの宣教メッセージが、パウロの劇的な回心体験において主から語られた言葉にも重なるのです。
冒頭で語りましたとおり、今日の箇所は聖書に精通しているアグリッパ王に語ったパウロの弁明です。この弁明の言葉に説得力を持たせているのは、自らの回心体験と聖書の内容との一致です。片方だけでは説得力を持ちません。聖書から離れて、自らの奇跡的な体験ばかりを強調しても怪しいばかりです。反対に自らの歩みと関係なく、ただ聖書の言葉ばかりを語っても説得力がないのです。聖書の言葉と自らの体験が一致するところにこそ、神の御業はこの地上におけるすべての人々に示されていく力を持つのです。聖書の言葉が、十字架と復活のキリストにあって実現した。これはわたしたちの歩みの内に起こった出来事でもあります。聖書に示された復活の主を前にして回心体験したからこそ、わたしたちは主を信じ、今、主を礼拝しているからです。これは必ずしも救われた時だけの話ではないでしょう。わたしたちの信仰生活の中で、聖書に示された主イエスキリストは繰り返しわたしに語りかけてくださるのであり、わたしの目を開かせてくださるのであり、わたしを立ち上がらせてくださるのです。聖書をとおして、わたしたちはそれを知るのです。そしてそのような御言葉に基づく体験を経て、わたしたちは聖書の言葉が真実であることを知るのです。これからわたしたちが与る聖餐式にも当てはまります。聖餐式の始めには、主イエスが語られた制定の御言葉を朗読します。その実現として、わたしたちはパンと葡萄酒に与るのです。こうしてわたしたちは、自身が体験した主の十字架の死と復活を人々に告げ知らせる証人として世に遣わされていくのです。