聖書箇所:創世記24章50~67節
決意の出発
イサクの嫁を連れてくる大役を命じられた僕が、いよいよリベカを連れてイサクのもとに帰る場面です。こうしてイサクとリベカは結婚します。結婚は、あらゆる人間関係のなかでも最も強い結びつきとして神がお定めになった関係です。ですから結婚関係を考えることは、あらゆる人間関係を考えることにもつながります。
イサクとリベカが結婚に至った経緯には、わたしたちが持つ結婚の常識とは全く異なる点が見られます。リベカを主人の息子の嫁として連れて帰りたい。僕のこの願いに回答したのは、リベカ本人ではなく兄ラバンと父ベトエルでした(50節)。しかもイサクとリベカは、まだ一度も顔を合わせたことがありません。現代とは異なる常識を土台とした二人の結婚から、わたしたちが結婚関係について忘れがちな点を教えられたいのです。
さてリベカの父ベトエルと兄ラバンは、僕がリベカを連れて行くいことに同意しました。その理由は、このことが主の御意志であり、主がお決めになったことだからです。僕が体験してきた歩みを聞かされて、二人はそこに主の御心があったと判断したのです。それを聞いた僕は、地に伏して主を礼拝しました。そして金銀の装身具や衣装をリベカに送り、兄と母にも高価な品物を送りました。リベカが嫁ぐにあたっての結納の品でありましょう。ところが翌日になりますと、リベカの兄と母は若干態度を変えます。もう少しリベカをわたしたちの手もとに置いてほしいと願い出たのです。主がお決めになったことと、家族と離れたくないという自らの思い。その間で、彼らは葛藤しています。僕は、これは主がお決めになったことであるため引き留めないでほしいと願います。そこでリベカ本人を呼び、その口から意志を確認することになりました。リベカの答えは明快でした。「はい、参ります」。原文では、「わたしは行きます」というわずか一語の言葉です。短いからこそ、彼女の決意が感じられます。彼女もまた、このことが主の御意志によるものだと受けとめているのです。リベカの意志を確認した兄と母は、リベカと乳母を僕たちと一緒に出立させることにし、祝福の言葉を述べて送り出しました(59,60節)。
62節からは、イサクとリベカが出会う場面です。夕方暗くなる頃、イサクが野原を散策していました。彼はラクダを見つけます。ラクダに乗っていたリベカもイサクを見つけ、あれが誰なのかを僕に問いかけます。僕は、あの方が私の主人だと答えます(65節)。ここにおいて僕は、アブラハムではなくイサクをわたしの主人と呼びます。この結婚によって、アブラハムの時代からイサクの時代へと変わっていくことが暗示されています。リベカはベールをかぶり、イサクと会う準備をします。僕はイサクに対して、自分が成し遂げたことすべてを報告しました。それを聞いたイサクは、リベカを亡き母サラの天幕へと迎え入れました。こうして二人は結婚しました。この結婚によってイサクは、亡くなった母に代わる慰めを得たのでした。
このように、現代の結婚とは全く異なる経緯でイサクとリベカは結ばれました。現代における結婚では、お互い相手をよく知り合い、お互いの同意のうえで結婚します(日本国憲法二十四条参照)。何よりも尊重されますのは、本人の意思です。一方イサクとリベカの結婚では、本人たちの意思がないわけではありませんが、中心をなしているのは主の御意志です。主の御意志を家族や本人たちが認めたことによって二人は結ばれました。わたしたちの教会の結婚式の式文において繰り返し強調されているのも、この結婚が主の御意志によるものだという点です。それが決定的に示されますのが、結婚式で読まれる「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ19:6)との宣言です。確かに結婚は、両者の意思によるものです。しかしその背後に、両者を結び合わせられた神の導きがあるのです。もし結婚が両者の意思のみによる関係だとしたらどうでしょうか。本人たちに意志がなくなれば、離婚です。自分にメリットがあるから結婚を継続する。気に入らなければ相手を捨てる。これが本人たちの意思だけによって維持される結婚関係です。さきほどのマタイ19:6は、主イエスがファリサイ派の人々に語られた言葉です。このファリサイ派の人々の結婚理解も、律法にしたがって離縁状を書けば気に入らない妻との関係を解消できると理解していました。人間関係の基盤である結婚がこのような関係であるならば、あらゆる人間関係も同様になるでしょう。このような関係に、安心を求めることなどできません。僕についていくことを決めたリベカは違いました。自分の意思だけで結ばれる世界から、神が結び合わせてくださる世界へと歩みだしたのです。もし気に入らないところがイサクにあったとしても、神が結び合わせてくださった関係であるがゆえにリベカは受け入れる努力をしなければなりません。このような結婚関係のなかで、イサクは慰めを得たのです。
わたしたちもまた、神が結び合わせてくださった関係の中に生きています。その中心が結婚です。この結婚関係を基盤として、あらゆる隣人と関係を結んでいくのです。誰よりも神が、わたしたちとの関係を結んでくださいました。罪人であるわたしたちは、神から見れば都合の悪いところだらけです。それでもなお、キリストを十字架につけてまで、見捨てることなくわたしたちと共にいる関係を神は結んでくださいました。この愛の神が結び合わせてくださった結婚関係を、そしてあらゆる人間関係を、わたしたちも大切にしてまいりたいのです。主が結び合わせてくださった関係へと決意を持って歩みだすとき、わたしだけでなく、神がわたしと関係を結んでくださる方々にもこの上ない慰めが広がっていくのです。