聖書箇所:使徒言行録27章39節~28章10節
不信から敬意へ
引き続き、パウロのローマへの旅路を見てまいりましょう。パウロが乗船していた船が嵐にあい、一時は絶体絶命の状況にまで追い込まれました。しかし前回の箇所において、パウロと共にいる全員が助かることが語られました。その後27章の最後で、いよいよ皆が上陸する様子が記されます。決して平和裏に上陸できたわけではありません。船は浅瀬に乗り上げ、激しい波によって壊れ始めます。この状況のなかで兵士たちは、護送中の囚人たちが逃げることを危惧し、殺してしまおうと計ったのでした。しかし百人隊長はパウロを助けたいと思っていたので、兵士たちを思いとどまらせました。そして泳げる者がまず海に飛び込んで陸地へ上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いでいくよう命令しました。こうして全員が無事に上陸することができました。しかしまだ安心できる状況ではありません。持ち物は何もなく、冬になろうとしている季節に皆ずぶ濡れでした。彼らが打ち上げられたのは、マルタ島でした。島の住民は流れ着いた人々に大変親切にしてくれました。島の住民によるこのもてなしがなければ、上陸した人々はおそらく生きながらえることはできなかったでしょう。そうなってしまってはパウロがローマへと至ることはなく、パウロがローマで証しするとの神の約束も実現しないのです。キリスト者ではない人々をも、神は御自身の御計画のために用いられるのです。
続いてパウロがたき火にあたっていたときのことです(8:3以下)。彼が一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の蝮が彼の手に絡みつきました。島の人々にとってそれは死を意味しました。それて住民たちは、パウロが人殺しで、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだと言いあいました(4節)。ここから、この人々の信仰や正義について垣間見ることができます。それは因果応報に基づく信仰であり、それに基づく正義です。この島の人々だけではないでしょう。おそらくローマ帝国全体がそのような考え方によって回っていたのでしょうし、現代社会もまた同様です。この考え方は、ある人に悪いことが起こったならばその人は何か悪いことをしたはずだ、とみなすことにつながります。だからこそ災難に見舞われたパウロに、追い打ちをかけるように人々は不信の目を向けたのです。しかし予想に反し、パウロの様子に変化はありませんでした。すると彼らの評価は人殺しから神様へ180度変わります。因果応報に基づく評価は、一つの出来事で簡単に変わってしまう不安定なものです。人の評価の移ろいやすさ、因果応報の考え方の不安定さがここに示されています。
その後、7節からは島の長官プブリウスとの交流が記されます。彼もまたパウロたちを歓迎し、三日間にわたって手厚くもてなしました。このとき、プブリウスの父親が熱病と下痢で床についていました。そこでパウロは家に行って祈り、手を置いていやしました。このことは、パウロ自身が神ではなく、神に祈る存在であるにすぎないことを周囲の人々に示す意図もあったのでしょう。このことがきっかけで、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらいました。こうして彼らはパウロたち一行に深い敬意を表し、船出のときには必要な物を持って来てくれたのでした。無一文で島に流れ着いたパウロたちでしたが、この島を出港する際にはローマに向かうための必要がすべて満たされたのでした。
パウロたちに対する人々の評価が不信から敬意へ変化のきっかけは、島の病人たちへのいやしでした。このいやしは、パウロが手を置いた瞬間に病が癒された、というような奇跡的かつ短期間の業ではなかったようです。11節から、パウロたち一行がこの島に三か月ほど滞在したことが分かります。ですから、いやしは長期にわってなされた働きでした。そして使徒言行録の著者ルカは医者です。彼が、病人を前に何もしなかったとは考えられません。医療的なケアをルカが行いつつ、パウロは手をおいて祈りながら魂のケアを行ったのでしょう。こうした長期的な関わりのなかで、人々はいやされていったのです。その証拠に、10節で人々が敬意を表した相手はパウロ個人ではなく、ルカを含めた「わたしたち」です。パウロたち一行は皆がそれぞれの賜物を用いて人々をいやしました。しかも時間をかけて彼らに寄り添ったのです。さきほど、人の評価は変わりやすいとお話しました。しかし時間をかけて築き上げた関係は、簡単に揺らぐことはありません。そのような関係が、三か月の間にパウロたち一行と住民たちとの間で結ばれたのです。キリスト者でない人々とのこの関係が、最終的には神の御計画の実現のために用いられることとなったのです。
わたしたちは、キリスト者ではない方々とどう関わるべきでしょうか。救いに関して言えば、普通の方法は主イエスを信じるほかありません。しかしそれは、キリスト者ではない方々すべてが神の御計画を邪魔する者だということを意味しません。キリスト者ではない方々も神の御支配の中にあり、ときに彼らの行動が神の御業に用いられるのです。だからこそ、未信者の方々の良き隣人として仕えるべく、わたしたちは召されています。奇跡によって短期間の御業がなされることも、ときには起きるかもしれません。しかし我々は、時間をかけて隣人と関わることを大切にしてまいりたいのです。クリスチャン人口が少ない日本において、人々のキリスト教への不信は免れません。しかしそういった評価に左右されることなく、隣人との関りを大切にしてまいりましょう。各々の賜物を持ちながら、時間をかけて確かな関係をあらゆる人々と築き上げてまいりましょう。そのような関係をとおして、聖書に示された神の御計画は実現していくのです。