聖書箇所:使徒言行録28章11~16節
兄弟たちに迎えられて
パウロがいよいよローマへと到着するのが今日の場面です。マルタ島からローマへと向かう旅路は、様々な面で整えられて大変順調であったようです。まず都合が良いことに、マルタ島にはアレクサンドリアの船が冬を越していました。この船は、首都ローマに小麦を運ぶ運搬船であったようです。ディオスクロイを旗印とする船でした。ディオスクロイとは、ゼウスの双子の子供の神を指します。異教の神を掲げた船でさえも、神の恵みのうちに用いられたのです。その後船は、シラクサに寄港して三日間滞在しました。そしてこの町を出港し、レギオンへと至ります。パウロたち一行は、ついにイタリア半島へと至りました。丁度よいことに一日たつと南風が吹いてきましたので、さらに船で移動し二日でプテオリに到着しました。プテオリは移民が多い都市で、古くからユダヤ人も住んでいました。パウロが到着したとき、そこにはすでにキリスト者もいたようです。この町の兄弟たちはここに留まるようパウロに要請しました。それを聞き入れて、パウロはそこに七日間滞在することとなりました。ところでパウロは護送中の囚人の身ですので、自由に旅をすることはできなかったはずです。ですから囚人の護送を担当していた百人隊長も、プテオリに滞在しなければならない理由があったものと思われます。ローマ軍側の事情もあいまって、パウロは兄弟たちの願いに沿ってこの町に滞在することができたわけです。その後パウロは、ついにローマに到着したのでした。
15節は時が少し戻りまして、パウロたち一行がプテオリからローマへと向かう途中のできごとです。兄弟たちがパウロたちのことを聞き伝え、アピィフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれました。パウロがプテオリに滞在中の7日間の間に、先にローマの兄弟たちに知らせがもたらされたのでしょう。アピィフォルムはローマから65キロ程度、トレス・タベルネはローマからは53キロほどの場所に位置しています。これらの場所まで、ローマからわざわざ兄弟たちが迎えに来てくれました。ローマへ向かうパウロたち一行は、自分たちが歓迎されていることを強く感じたでしょう。本日の旅路は、移動だけが順調だったのではありません。兄弟たちからの歓迎という交わりの面でも順調でした。こうしてパウロはローマへと到着しました。番兵を一人つけられましたが、自分だけで住むことが許されました。この待遇については、きわめて珍しい待遇でもなかったようです。ただ、すべての囚人が同じ待遇だったわけではありません。他の囚人たちの中には、兵営に連れて行かれた者もいたのです。そのなかで、パウロは一人で住むことが許されました。皇帝に上訴する囚人の身でありながら、ローマでキリストを証しするのに都合の良い住まいが与えられたのです。ローマでの待遇の面でも、本日の旅路は順調だったと言えます。
このように、マルタ島からローマに至る旅路は、移動においても、兄弟たちとの交わりにおいても、ローマでの待遇においても順調なものでした。生涯にわたるパウロの旅路の最後が、順調に終わっていく。そのなかで、パウロは神に感謝しつつ勇気づけられています。この感謝と励ましは、マルタ島からローマへの移動が順調だったことのみから与えられたものではないでしょう。エルサレムで逮捕されてからローマへと移動する道筋、さらにはその前に三回にわたってなされた宣教旅行を思い起こしながら、パウロは神に感謝し、勇気づけられたのです。それらの旅路は、順調なときよりも苦労したことや死にかけたことのほうが多かったのです。そのときにも神の守りと導きがあったことをパウロは思い起こしたのです。そのことも含めて、パウロは神に感謝し、勇気づけられたのです。人間というものは、苦しいときの神頼みは熱心でありながら、調子のいいときは神のことを忘れがちになります。辛かった時のことを忘れ、あたかも自分の力で順調な状況を作り出したかのように思いがちです。しかしそのような思いの中では、神への感謝も、神から勇気づけられることもないのです。
パウロは、主に仕えながら生涯にわたり旅を続けました。そしてその旅を、大変順調な歩みのなかで終えようとしています。この旅路が、この浜松教会の歩みと重なるようにわたしには思えるのです。教会の歩みにおいて、長らく思うように会員が与えられない時期が続きました。そのような厳しい歩みを経て多くの兄弟姉妹が与えられ、わたしたちは教会設立をしようとしています。このようなときだからこそ、この教会の厳しかった時期のことを思い起こしたいのです。大変厳しい状況を経て、ここまで導かれたことに勇気を与えられたいのです。この歩みは、わたしたちそれぞれの歩みも同じでしょう。わたしたちはそれぞれに、嵐のような歩みを経て今ここにいるのです。病や事故などにより文字通り肉体的な危機を経験された方がおられるでしょう。あるいは、親しい方が亡くなったり、自らの生きる価値が見いだせなかったりと、魂の危機を経験された方もおられるでしょう。そのような状況を経て、このわたしをここまで導いてくださった神の恵みに感謝する者でありたいのです。そのことに勇気を与えられる者でありたいのです。
これまでわたしたちに与えられてきた神の導きは、決して神の気まぐれによるものでありません。キリストの十字架と復活という確固たる神の御業を根拠として与えられてきた導きであり恵みです。このあとわたしたちが与る聖餐式にこそ、わたしたちが嵐のような人生を守られ導かれた根拠があるのです。この導きと恵みに、今こそ感謝する者でありましょう。そして神がこのわたしを守り続けてくださったこの事実に勇気づけられながら、神に仕える新たな一週間の歩みを始めてまいろうではありませんか。