2022年7月10日礼拝説教「会って話し合いたい」

 

聖書箇所:使徒言行録28章17~22節

会って話し合いたい

 

 パウロがローマでキリストを証しするとの神の御計画が、今日のところから実現していきます。この証しはまずユダヤ人たちに対して行われ(17~28節)、その後あらゆる人々になされました(30節)。今回と次回で、ローマにいるユダヤ人たちへの証しの場面を共に学んでまいります。

ローマに到着したパウロはまず、おもだったユダヤ人たちを招きました。本来であればパウロが会堂へ行って、指導者に直接話をしたいところです。けれどもパウロ自身は皇帝の裁判を待つ身であり、自由に行動することができません。そこで、ローマにいるユダヤ人を自らのところへ招いたのでした。その招きに応えて、おもだったユダヤ人たちがパウロのところまできたのでした。

 パウロはここで、自らがローマへ来ることになった経緯を語ります(17節後半)。パウロは自らが民に対しても先祖の慣習に対しても背くようなことは何一つしていないにも関わらず、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。パウロを逮捕したローマ人たちはパウロを取り調べたのですが、死刑に相当する理由は何もありませんでした。それで彼らはパウロを釈放しようとします。それに対してユダヤ人たちが反対します。そのため、パウロは皇帝に上訴せざるを得なかったのです。これはやむをえずの上訴であり、同胞であるユダヤ人を告発するためではないのです。だからこそローマに着いた後、ユダヤ人であるあなたがたにまず会って話し合いたいとお願いしたのだと、パウロは語りかけました。そして自分がこのように鎖につながれているのは、結局のところイスラエルが希望していることのためだと語ります。イスラエルの希望とは、旧約聖書に記された神の約束です。当時新約聖書はまだありませんから、旧約聖書がイコール聖書です。そしてこの聖書を、ユダヤ人たちもまた信じています。だからこそ議論の余地があるのです。

ところでここまででパウロがここで語っている自らの境遇は、主イエスの受難と重なっています。すなわちユダヤ人たちの手によってローマ人の手に引き渡されたこと、裁判を受けたがローマ人は罪を見いだせなかったこと、それでも釈放にユダヤ人たちが反対したこと。これらが主イエスの十字架への道と重なるのです。ここですでに、聖書に記されたイスラエルの希望こそ、この主イエスキリストだというパウロの主張が込められています。

 これに対するローマのおもだったユダヤ人たちの反応が、21節から語られていきます。ここから判明しますのは、エルサレムのユダヤ人たちがローマのユダヤ人たちに何のアクションも起こしていないということです。それはエルサレムのユダヤ人たちが、皇帝の裁判にまで介入することはもはやできないと判断したからでしょう。ともかくローマのユダヤ人たちは、パウロに対して書面を受け取ったり、直接何か報告されたり話されたりしたことはありませんでした。ただしこの分派について各地で反対があることは、彼らも耳にしていたようです。分派という言葉は単に派閥を意味しています。我々に置き換えるならば、教派という意味に近いように思います。ですから彼らとしては、この新しい教派について各地で反対が起こっているが、実際のところはどのようなものかをパウロに直接会って聞きたいと願っていたのです。ここに、彼らがパウロの招きに応えた理由があります。

 このようにしてパウロにしてもローマのユダヤ人たちにしても、直接会って話し合おうと願っていたようです。その話題の中心が「イスラエルが希望していること」、すなわち聖書に示された希望がどのようなものか、という点です。思えば、パウロだけでなくローマのユダヤ人たちも、またエルサレムのユダヤ人たちも皆、同じ聖書を受け入れています。ところが、特にエルサレムのユダヤ人たちはパウロに強硬に反対しました。聖書を信じてさえいれば、皆が無条件に一致できるわけではないのです。聖書を基にして、真摯に話し合い学び合うことをとおして、イスラエルの希望として現れた主イエスキリストは証しされていくのです。聖書を学ぶことの重要性がここにあります。それは聖書知識を蓄えることが目的ではありません。聖書に向き合うことをとおして自らの理解や考えを新たにしていくことです。

 もちろん一人で聖書に向かう時間も大切です。しかしそれにとどまって個人的な理解で満足するのは、聖書に従うことではないのです。教会で共に集まって聖書に聞くこと。そこで自らの理解が新たにされていくこと。そして新たな理解に従って、御言葉に生きること。それこそ、本当の意味で聖書に生きるということなのです。

 

 この営みの中心がこの礼拝です。しかしそれだけ満足してはならないのです。礼拝だけでなく、事あるごとに聖書に向き合い学ぶことが大切です。このコロナ禍において、学びをすることが本当に難しくなりました。だからといって聖書から学ばなくていいということは全くありません。この困難なときだからこそ、聖書に記された神の言葉に真剣に向き合いたいのです。この聖書にこそ、わたしたちに与えられた無限の希望があります。ときにわたしたちは、もう聖書を知りつくしたかのように思えてしまうことがあるのです。それゆえに、学ぶことをやめてしまうのです。今ある自らの個人的な理解で満足し、それに留まってしまうのです。そうなってしまっては、それ以上の希望を聖書から受け取ることはできません。もったいないのです。繰り返しになりますが、聖書には神の示された無限の希望があります。この希望に期待して、共に聖書に学び、聖書を通して自らを新たにし続けてまいろうではありませんか。