2022年7月24日礼拝説教「パウロの宣教の先に」

聖書箇所:使徒言行録28章30~31節

パウロの宣教の先に

 

使徒言行録の連続講解説教も本日で最後となりました。使徒言行録の最後において、パウロでのローマでの宣教がすべての人々になされることとなりました。それは、本来救いの優先権を持っていたはずのユダヤ人たちがパウロの許を去っていったことにより行われました。だれかれとなく、すべての人々への宣教がなされた。いまやすべての人々に、キリストの福音を宣べ伝える時代が来ているのです。そのような時代の働き手として、使徒パウロは描かれています。使徒パウロによってすべての人々に神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けられたのでした。ここで宣べ伝えられている内容は、先の23節でパウロがユダヤ人たちに語ったものと同じです。ですから、宣べ伝える内容が変わったわけではありません。聖書に記された神の王国、神の御支配が、救い主キリストによって実現した。それこそパウロが変わらず語り続けたキリストの証しでありました。

30節には、パウロが自費で借りた家に丸二年間住んだことが記されています。つまり二年後に、パウロの生活に何らかの変化があったのです。二つの説があります。一つは二年後にパウロが殉教したという説、もう一つは二年後にパウロが解放されたという説。おそらく解放されたのだろうとわたしは考えます。理由は、30節と31節の文の文法です。具体的には、この文に含まれている動詞の時制です。「丸二年間住んで」とあります「住む」という動詞は、すでに住み終わったことを示しています。それに対して、その後に出てくる動詞(歓迎し、宣べ伝え、教え続けた)はいずれもこれらの動作が継続したことを示しています。ですから後半の三つの動詞は、おそらく二年では終わっておらず、その後も続いたはずです。

二年後にパウロが解放されたならば、そしてその後も宣教が続いたとするならば、その後彼はどうなったのでしょうか。伝説ではローマで殉教したと言われています。しかし著者ルカは、非常に中途半端に、そして唐突に、使徒言行録を終えるのです。このような終わりはパウロだけではありません。すでに登場したペトロやバルナバも、途中ではおおいに活躍したにも関わらず、いつの間にか登場しなくなるのです。それを踏まえると、ルカは意図的に使徒言行録を中途半端に終わらせたと考えられるのです。なぜでしょうか。その意図は、使徒1:8の主イエスの言葉にあるでしょう。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。この主イエスの言葉が、今も継続していることをルカは示そうとしたのです。この時代のローマは、ローマ帝国の首都です。世界の中心と見られていました。中心であって果てではありません。ローマから地の果てに至るまで、今もなおキリストの証人が主イエスの福音を伝え続けているのです。そして聖霊を受けたあなたもこの働きに加わるのだと、著者ルカは読者を促すのです。

そもそもルカがこの書物を書いた動機はなんだったでしょうか。それはテオフィロに、自らの受けた教えが確実であることを分かってもらうためでした(ルカ1:2~3)。そのためにルカ福音書と、この使徒言行録は記されました。これらの書において、主イエス・キリストの教えが、途中迫害や嵐のなかで非常に危うい状況にまで追い詰められたことが描かれています。それはその後のキリスト教の歴史の中でもそうでした。何度も危機を迎えたのです。それでもなお神に守られ、今なお地の果てに向かって広がり続けているのです。使徒言行録の最後に描かれたパウロのローマでの宣教は、地の果てに向かって今なお継続しています。その結果、時代も場所も遠く離れたわたしたちのところにもこの教えは届いたのです。この事実こそ、テオフィロの受けた教え、キリストの福音が確実なものであることの何よりの証拠なのです。そしてこの教えは、それが確実だと頭で分かってそれで終わりではありません。ルカとしても、テオフィロが自らの受けた教えが確実だと理解してそれで満足であったはずがありません。受けた教えに基づいて、キリストの証しが継続している。このようにして、聖霊は今も生きて働いておられる。そしてこの教えにより聖霊を受けたあなたが、今度はパウロの働きを引き継いで主イエスキリストの証人となるのだと、ルカはテオフィロを、そして読者を促すのです。そしてパウロのローマでの宣教は、この教えを受けたわたしたちによって未来へと継続していくのです。こうしてこの教えが確実であることが、示され続けていくのです。

あらゆる事柄が不確かな世界のなかに、わたしたちは生きています。かつて常識だったことが、今では非常識。昨日まで当たり前だったことが、今はそうではない。このような継続性のない、不安定なときのなかで生きるためには、確かな土台が必要です。その土台としてわたしたちは、時代を超えて証しされてきた教え、主イエスキリストの救いの恵みをいただいたのです。キリストを証しするパウロの宣教は、今なお続いています。そしてわたしたちを通して続けられていくのです。主イエスキリストにこそ、確かな救いがあり確かな道がある。その証し人として、わたしたちもまたパウロの宣教の働きに、それぞれの賜物を活かして加わってまいろうではありませんか。わたしたち自身は小さな証し人に過ぎないかもしれません。またわたしたちの教会もまた、社会全体から見れば小さな存在でしかないかもしれません。しかしそのような者が、なおキリストの証し人として生きるのです。そのことをとおして、聖書に示された神の国、主イエスキリストの教えが確かであることが地の果てに至るまで示されていくのです。