聖書箇所:創世記25章19~34節
欠けある家族と神の約束
アブラハムの息子イサクから、エサウとヤコブという双子の息子が生まれるのが今日のお話です。アブラハムの妻サラになかなか子供が与えられなかったように、イサクの妻リベカにも子供ができませんでした。そこでイサクが祈ると、その祈りが聞かれてリベカは身ごもりました。アブラハムの子孫の誕生は、神の救いの約束と関わっています。リベカに子供ができず、イサクが祈ってようやくリベカが身ごもったのは、神の救いの約束がどこまでも神の御業によって実現することを意味しています。こうして、双子が誕生しました。しかしそれが、両者の争いへとつながっていきます。子供たちがリベカの胎内で押し合っていました。そのため彼女は主の御心を尋ねました。そのとき主が言われた言葉が23節です。本来ならば、弟が兄に仕えるのがこの時代の常識でした。しかし神の御心はその常識を超えるものでした。なぜエサウではなくヤコブなのか。その理由は明かされていません。この争いは、この二人から出る二つの国民の争いへとつながっていくことをも神はお示しになられました。この神の御心のもとに、毛深い兄エサウと、兄のかかとをつかんで出てきた弟ヤコブが誕生しました。
こうして誕生したエサウとヤコブは、双子でありながら容姿だけでなく性格も違っていました。兄のエサウは巧みな狩人で、野の人となりました。一方ヤコブは天幕で働く穏やかな人でした。父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛しました。子供たちに対する偏った愛は、親としては褒められたものではありません。これが子供たちの争いの火種にもなるのです。アブラハムの子孫であるこの家族は、地上のすべての民に祝福を与えるとの神の約束の器です。しかし決して理想的な家族ではありません。この家族の弱さが、29節以下のエサウとヤコブのやり取りに如実に表れています。ある日のことヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰ってきました。「疲れきって」は、空腹を意味する言葉です。それゆえエサウは、目の前の赤い食べ物に心奪われます。それに対してヤコブは取引を持ち掛けます(31節)。譲ってくださいとは、直訳すると「売ってください」です。ヤコブは長子の権利を取引の材料にしたのです。神の救いの約束の器であるこの家族の長子の権利は、神の祝福と結びついています。それを売り買いの道具とするのは、決してふさわしくありません。神の祝福は、人間の側の都合で動かすべきではありません。しかしヤコブはそれをするのです。エサウもまたこの取引に同意します。目の前の食べ物に夢中となり、後先考えずに神の祝福を手放したエサウ。神の祝福を売り買いの道具としたヤコブ。そして子供たちを偏愛する両親。そのような家族の問題点をとおして、結果的に兄が弟に仕えるという23節の神の御心が実現していくのです。
さて、共に問題の多いエサウとヤコブですが、両者には違いもあります。それは長子の権利に結びつく神の約束にどれほどの価値を置いているか、という点です。エサウは神の約束よりも、目の前の料理に価値を置いていました。それに対してヤコブは、料理を提供することで、何とかして神の約束を手に入れようとしました。ヤコブが神の約束に大きな価値を置いていたのです。ここにエサウとヤコブを分けた境界線があるのです。23節の神の言葉は、エサウとヤコブの対立が二つの国民の争いにまで発展することが語られています。ここでヤコブは、彼の子孫である神の民を象徴しています。一方、エサウは後に神の民と対立するエドムを象徴しています(30節)。両者の対立は、神に従う神の民の生き方と、神から離れて生きる生き方の対立であり戦いでもあるのです。この二つを分けるのは、道徳心でも人の良さや頑張りでもなく、神の約束にどれだけの価値を置いたのかです。約束という以上、その祝福が与えられるのは将来です。将来与えられる神の祝福に価値を置く生き方こそ、神の民の生き方なのです。一方で、そのような将来の神からの祝福には価値を置かず、目の前の利益、今このときの生きやすさを最優先にするのが、神から離れたエサウの生き方なのです。
このことを思いますとき、主イエスが偽善者に対して「既に報いを受けている」と言われた言葉が非常に重く感じられます(マタイ6章)。信仰的に見える偽善者が本当に求めていたものは、今、目の前で手に入る人々からの尊敬や賛辞でした。それはまさに、エサウが神の約束を売ってまで目の前の食事を手に入れたのと同じ態度なのです。そう考えますと、わたしたち自身も考えさせられます。このわたしが本当に求めているものはなんでしょうか。礼拝出席にしても、献金にしても、伝道にしても、それらをとおしてこのわたしが本当に求めているものが問われるでありましょう。今得られる利益を第一の目的とするような生き方は、エサウの生き方に他なりません。それでは、神の民として生きるための戦いを戦い抜くことはできないのです。わたしたちには常に神の約束よりも目の前の利益を優先する誘惑があります。だからこそ、信仰生活は戦いです。この戦いの中で、わたしたちのなかにある弱さ、歪み、ずるがしこさがあらわにされていくでしょう。この戦いを戦い抜く武器は、わたしたち自身の努力ではありません。わたしたちが神のために何かを我慢することでもありません。武器はただ一つ。神の約束に価値を置くことです。これは言い方を変えれば、どのような状況にあっても神の約束に希望を置くことができるということです。この事実にこそ、信仰生活を主イエスと共に戦い抜く道があるのです。主イエスは言われます。
「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)
この希望を胸に、信仰生活を戦い抜いてまいろうではありませんか。