聖書箇所:創世記26章15~33節
主があなたと共におられるから
本日の聖書朗読は15節からしていただきましたが、説教では26章の最初から取り上げてまいります。イサクは飢饉のために、ゲラルにいるペリシテ人の王アビメレクのところに身を寄せました。そこでアブラハムに対する主の約束が、イサクにも語られます。イサクがこの地に滞在することによって、アブラハムに約束されていたことがイサクにも約束されました。
この主の言葉に従って、イサクはゲラルに滞在しました。ここでイサクは妻リベカを妹と偽りました。決して褒められたものではありませんが、結果的にゲラルの地でイサクは安全に滞在することができました。そしてその地で主はイサクを祝福されました(12~14節)。ここで神の祝福として与えられたのは、財産であり世での成功でした。神は御自身が良しとされる形で、豊かさや成功をも与えてくださいます。イサクは、飢饉のなかでもゲラルの地で穀物の種を蒔いたのであり、また財産を増やす努力をしたのです。それを主が豊かに祝福してくださったのでした。
イサクに与えられたこの豊かな祝福は、その地に住むペリシテ人の妬みを招くこととなりました。15節からは、井戸を巡る争いが起こります。本日の御言葉の舞台は砂漠地帯ですから、農業をするにしても家畜を飼うにしても井戸は欠かせません。その井戸を、ことごとくふさぐわけです。成功したイサクに対する陰湿な嫌がらせです。さらにアビメレクはイサクに対し、ここから出て行くように言いました。不当な扱いを受けたイサクでしたが、そこを去ってゲラルの谷に天幕を張って住みました。そこには父アブラハムが僕たちに掘らせた井戸があったのですが、すでに埋められていました。そこでイサクは、それらを掘り直しました。またイサクの僕たちは谷で新たな井戸を掘り、水が豊かにわき出る井戸を見つけました。すると今度はその井戸を巡って、ゲラルの羊飼いたちと争いが起きました。そのため、この井戸はエセク(争い)と名付けられました。そこでイサクの僕たちはもう一つの井戸を掘りあてました。しかしそこでもまた争いが起こりましたので、その井戸はシトナ(敵意)と名付けられました。結局イサクはそこから移動して、さらにもう一つの井戸を掘り当てました。それについては、もはや争いは起こりませんでした。そこで彼はその井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言いました。イサクはその場所に、神の約束の実現を見たのです。
イサクはそこからさらにベエル・シェバに上りました。するとその夜、主が現れます。そして改めてアブラハムに対してなされた約束が、イサクに対して語られました。そこでイサクはそこに祭壇を築いて主を礼拝し、天幕を張って留まることにしました。その場所でイサクの僕たちは、改めて井戸を掘り始めました。そうこうしている間に、アビメレクが参謀のアザフトと軍隊の長のピコルと共に、ゲラルからやってきました。彼らがイサクのところに来たのは、契約を結ぶためでした。それは、以前わたしがあなたを無事に送り出したように、我々にいかなる害も与えないという契約でした。イサクは、アビメレクの申し出を受けることにしました。祝宴を催して共に飲み食いし、翌朝両者は互いに誓いを交わしました。その後、アビメレクたち一行は安らかに(直訳すると、平和のうちに)去っていきました。ちょうどその日に、掘っていた井戸から水が出たとの報告がありました。そこでイサクはその井戸をシブア(誓い)と名付け、その町はベエル・シェバ(誓いの井戸)と言われています。
さて本日の御言葉の特に後半部分では、井戸を巡って争いが起こり、しかし最後には誓いがなされ平和がもたらされました。19節の「水が豊かにわき出る井戸」を直訳すると、生ける水の井戸です。井戸は、まさに命の水を与えるものでした。これもまた、主がイサクに与えられた祝福の一つでありましょう。しかしそれを巡って争いが起きました。この争いをとおして、主の祝福が確かにイサクに与えられていることがアビメレクに示され、イサクとの契約を結ぶに至りました。本当の意味でイサクの命を支え、彼に平和を与えたのは主の祝福でした。この祝福は、主がアブラハムになしてくださった約束に基づいて与えらました。ですから主の祝福の源は、主なる神の約束なのです。主の約束こそ主の祝福の源泉であり、生ける水が湧き出る井戸なのです。ベエル・シェバ、誓いの井戸。この誓いとは、直接的にはイサクとアビメレクの間でなされた誓いを指しています。しかしそれ以上に、主御自身がアブラハム・イサク、そして彼の子孫に約束してくださった恵みの契約、祝福の誓いこそがベエル・シェバという言葉に込められているのです。
この主の誓いに基き、主イエスキリストはお生れになりました。このお方が、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4:14)と言われます。主イエスキリストこそ神の祝福の源であり誓いの井戸なのです。この水を受けることにより、争いは平和へと変えられます。この水を、わたしたちは洗礼において与えられました。そして今わたしたちからも、主イエスキリストという命の水がわき出ているのです。それは今日の箇所で、平和がイサクに留まらずアビメレクにも流れ出たことに現されています。
わたしたちは、命と平和をもたらす主イエスキリストという命の水を受け、また届ける者として、今日ここからそれぞれの場所へと遣わされていきます。そこはイサクのいた砂漠地帯のように、人々の渇きと争いに満ちた場所です。そこにわたしたちは、主イエスキリストという命の水を携えて、召し出されていくのです。