聖書箇所:テモテへの手紙一1章1~2節
信仰によるまことの子
本日からテモテへの手紙一を共に学んでまいります。テモテへの手紙は、パウロがテモテ個人に宛てた手紙です。テモテは使徒16章でパウロと出会い、宣教旅行に同行しています。その後テモテは、エフェソ教会の監督となりました。その後にパウロがテモテに送ったのがこの手紙であると言われています。いわば偉大な先輩指導者から若手牧師への手紙です。この手紙をとおして、教会がどのような場所であるかを学びたいのです。
まずはテモテが遣わされていたエフェソ教会について見てみましょう。キリスト教が誕生して間もない時期にも関わらず、この教会はある程度の規模まで成長した教会でありました。それはこの手紙の中で役員の任命について触れられていることからも明らかです。とはいえ当時は会堂ではなく家の教会ですから、一つの教会の規模としては20~40名程度だったようです。ちょうど浜松教会と同程度です。しかしこの当時としては、成長した教会であったと言えます。それゆえの問題があり、テモテは頭を悩ませていました。このことが、パウロに筆を執らせる動機となりました。
人が集まる組織は、大きくなればなるほど互いに声をかけて指示しあうことが大切です。教会も例外ではありません。誰かに何かを指示する場合、その内容と共に、指示する人と指示される人の関係もまた重要です。同じ指示であっても、部下から言われるのと、社長から言われるのでは、重みが違うのと同様です。パウロもまた、教会における権威を持ってテモテに手紙を書いています。その権威は、パウロとテモテの関係に基づいています。故にこの手紙において、パウロはまず自らとテモテとの関係を明らかにします。パウロは自らをキリスト・イエスの使徒だと書いています。教会において非常に大きな権威を持つ任務であることは、言うまでもありません。パウロがこの任務についているのは、わたしたちの救い主である神とわたしたちの希望であるキリスト・イエスによる任命によります。ですからパウロの権威は、神とキリストに100%依存しているのです。
ところでこの時代、「救い主」と聞いて多くの人々がまずイメージするのはローマ皇帝でした。ですから「救い主である神」と書くのは、皇帝へのアンチの意味があります。皇帝のような力による上からの支配による権威ではないのです。そして救い主である神と並列する存在として、わたしたちの希望であるキリスト・イエスが挙げられています。ここに、パウロの三位一体論が表れています。キリストは十字架を通して、罪人であるわたしたちに希望を与えてくださるお方です。このお方の任命により権威をいただいて、わたしは使徒とされ、この手紙を書いているのだとパウロは示すのです。パウロは晩年この手紙を書いています。それまで自らが成し遂げてきた功績を挙げて、実績あるわたしの言葉に従いなさい、と書くこともできたはずです。しかしパウロが自らの権威として挙げたのは自らの実績ではなく、どこまでも神とキリストによる任命なのです。
続く2節でパウロは、テモテを「信仰によるまことの子テモテ」と呼びかけます。パウロとテモテは、すでに長い時間を過ごしてきました。それにも関わらず、パウロがテモテとの関係の基盤として置いたのは「信仰」です。同じキリストを信じる者とされている。この事実を土台として、パウロはテモテに「まことの子よ」と呼びかけています。そのテモテに対してパウロが願うのは、恵みと憐れみと平和です。恵みと平和の組み合わせは聖書の中でも何か所か出てきます。それに「憐れみ」を加えているのが、この箇所の特徴です。憐れみについてパウロは、13節で自身も受けたものとして書いています。ここでいう憐れみとは、自らが分不相応であることが前提です。この神の憐れみがテモテにも与えられるように願うということは、神から見ればテモテもまたエフェソ教会の監督には分不相応だということです。そんなテモテにも自分と同じように恵みや平和と共に神の憐れみが与えられるようにと祈り願いながら、パウロはこの手紙を書き始めるのです。
ここまで1~2節の短い箇所から、指示を与えるパウロとそれを受けるテモテの関係が記されました。二人の関係の土台はいずれも神に由来するものでした。通常わたしたちが誰かと関係を結ぶとき、互いの行動を土台として信頼関係が結ばれます。パウロとテモテの関係に、このような互いの行動由来の信頼がなかったわけではありません。むしろ大いにあったのです。それでもパウロがテモテとの関係の土台として挙げるのは、どこまでも神に由来する要素なのです。神とキリストの恵みの上にこそ、まことの子と呼べるほどの親密な関係が築かれるのです。この関係は、教会において兄弟姉妹と結ばれるあらゆる交わりの関係にも当てはまります。パウロがテモテに手紙を書いたように、教会においてもまた兄弟姉妹が互いに声をかけあいます。ときには厳しい言葉をかけなければならないときもあるでしょう。しかしそれは、より熱心に教会に仕える者がそうでない人々を叱って言うことを聞かせる、といった人の行動を土台とするものであってはなりません。それはどこまでも、神のご命令に基づき、神の権威でなされるのです。そして、共にキリストを信じる信仰を持つ親しさのなかでなされるのです。何よりも神の恵みと憐れみと平和を求めてなされるのです。
人の行いに基づく関係は、簡単にうつろうものです。一つ失敗すればあっという間に壊れてしまいます。しかし救いの神とキリストを土台とする関係を結ぶとき、親と子のような変わることのない交わりが築かれるのです。そこには十字架の赦しがあり、神とキリストを土台としているからです。教会に集うわたしたちは、この確かな関係で互いに結ばれているのです。